関西支部発

元労働基準監督官の四方山話 ―労災補償行政に関わってー

2022/12/05

 
社会保険労務士・谷口勉
(関西支部・支部通信第37号=22年10月号から転載)

1.日本航空123便墜落事故

1985年、広島局から兵庫局へ異動となって4年目、労働基準監督官に任官後7年目にして初めて労災補償業務を担当することとなった。当時は監督官が現場の労災補償を担当することは非常に稀であったと思うのだが、人事担当者が次年度の広域定期異動を前に、労災補償業務も勉強させておこうと考えていただいたものと思う。

赴任先は阪神工業地帯の西部に位置する大手造船、重工業がひしめく地域を管轄する署であった。

着任して4カ月が経過した後、8月12日に羽田発、伊丹空港行きの日本航空123便が群馬県の通称「御巣鷹の尾根」に墜落し、520人の尊い命が奪われるという大事故が発生した。事故の内容についてはご承知のとおり、後日、詳細な報告書が出されているが、当初、私は災害防止を進めるという職業柄、事故原因について関心を寄せていたのだが、間もなく、多くのご遺族からの労災遺族請求の対応に追われることとなった。

同じ飛行機に搭乗されていた方々の請求だが、会社の重役や自営業主等の労働者性の問題、関東での業務終了後に近接する自宅で過ごした後の業務地への移動、単身赴任者が帰省後に勤務地へ戻る場合の問題等、現在においては行政解釈の変更等により労災と認められた事案もあったかもしれないが、当時の労働省の解釈例規等においては業務上或いは通勤途上と認定できない事案もあったことを思い出す。

当然、各社から、何故、A社の労災は認められてB社は認められないのか等々の異議申し立てが多数寄せられたため、署として説明会を開催してご理解を得られるよう努力したのだが、何故か、労災補償行政経験1年未満の私が説明者として覚束ない説明を行ったことを記憶している。
行政は、解釈例規等により具体的事案をどのように取り扱うかを判定して行くが、そのことにより、少しの違いで認定・不認定を決定せざるを得ない現実を再確認したのがこの時だった。このため、刑事罰を取り扱う監督行政と違い、労災補償行政の解釈例規は基本原則に基づくものの、新しい時代に合わせて適宜改正が必要であると考えるが、当時は、やはり今ほどスピード感を持った対応はなされていなかったようにも感じている。もっとも、民間の方々からすれば、今でも腰が重いと叱られそうではあるが。

2.阪神大震災

1995年、私は京都市内の監督署で勤務していたのだが、朝方に地震が発生して当初は詳細が不明であったものが、次第に大災害が発生したことが判り、私の担当方面地域でも工場で働く人に被害が出ている模様であるとの情報もあり、何とか署を経由して管轄区域の中で最も大阪よりの工場へたどり着き、直ぐに災害調査に着手した。

災害は、皮肉にも工場の作業環境改善のために2年前に冷房用として工場の天井部分に設置した大型ダクトの留め具が地震により外れて落下し、ラインで夜間勤務されていた20代の従業員1名の頭部を直撃したもので、救助後に死亡が確認された。

詳細に現場の状況を調査し、災害発生原因・状況について確認した後、従業員の家族等について確認したところ、夜勤に入る前に第1子が誕生し、出産のために入院していた奥さんと子供に面会して夜勤が明けたらまたすぐに会いに来るといって夜間勤務に従事して被災したというもので、何とも心の痛む状況であった。
当時の行政は、それまで業務外としていた自然災害での事故を、一定程度業務上災害と認定する方向へ舵を切ってしばらく経過したころであったと記憶しているが、翌日から、工場責任者が署へ日参して「奥さんには、ご主人が無くなったことも報告できない。事故についてだけでも、何とか業務上災害にして欲しい。労災認定してもらえば、会社の上澄み補償も支給できる。何とか業務上に!」との要望を受け続けた。

その後、業務上の認定が下りて企業からは感謝されたが、その時が業務上災害と認定して企業から喜ばれた最初の経験であった。
監督官として、多い時には年間20名以上の死亡災害の現場調査を行うようになり、人間は実に簡単に命を無くす、命というものは、今日、どうなるか分からないものだと常に考えるようになっていたが、この事件もそう感じる事件の一つだった。

あれから27年が経過し、新型コロナも業務上と認められる時代となったが、当時のあの赤ちゃんが立派に成長して新型コロナに負けず元気に活躍していることを願っている。

3.労災保険給付

話は前後するが、京都局へ赴任した時、もう労災の担当はないだろうと考えていたのだが、ポストの関係もあり、2度目になるが労災課に配属するとの通知を受けた。ただ、当時の京都局は労災事故発生件数と比較して受給者数、特に長期受給者が全国一多く、非常に困難な時であったことを着任後知ることになる。
健康保険の傷病手当金は支給期間が最長1年6か月であるが、労災休業補償は、そのように支給期間の上限が法令上定められておらず、療養開始後1年6か月経過して傷病が重い場合は傷病補償年金等に移行するが、概ね、それまでの間に症状が安定し治癒となる場合が殆どであり、また、労災事故は症状が複雑であることも多いこと等を考慮して、ある程度支給期間が長引くケースも想定されるため上限が定めにくい。
一方、被災者の中には症状が安定して治癒の状態となっても通院することにより手厚い休業補償を受けることを望む者がでるのは道理であり、医師も通院を拒むことはできないため、行政の対応が遅れると長期間の受給となる。
当時、私が関わっただけでも10を超える労災被災者患者団体が存在し、「署は症状調査を行うな、医師に症状についての意見を求めるな、症状固定と判断して労災を打ち切るな」という要求の下に、個別折衝、団体交渉(陳情)が連日繰り返され、多いときには週3日間、罵声や脅迫じみた言葉を浴びせられる交渉が、夜間まで続けられていた。当然、職員は相手の話を聞き、行政としては制度の仕組み等を説明することに唯々専念していたが非常に苦しい時代だった。

当然、当時の職員は、このように制度を捻じ曲げて支給を続けることは、行政自体は勿論、患者本人にとっても良いことではなく、社会復帰することが、将来的にも非常に大切であると判断して、主治医に面会して意見を求め、治療内容を正確に把握し、本人との面接により現在の症状把握や治療内容、社会復帰に向けての協力等について丁寧に説明して適正給付に向けて行政を進めた結果、数年後にはようやく大規模な陳情等は行われなくなり、長期受給者数も減少した。
当時を振り返って、労災補償は、迅速に被災者を救済するとともに、救済決定後は被災者の社会復帰に向けて各種制度を活用した援助が如何に重要であるとかを今更ながら感じている。

4.特別加入制度

法令上の労働者に該当しない一人親方その他の自営業者(一人親方等)が一定の団体を事業主と見なして一人親方等として労災保険の適用を受けることができる特別加入制度は、近年のフリーランス保護の問題が浮上してから再度注目を浴びるようになってきている。
「新たな資本主義」で取り上げられたフリーランス保護新法の制定についての考え方は2021年3月に発出された「フリーランスとして安心して働ける環境を整備するためのガイドライン」で示された、フリーランス自体の契約等の保護については原則として独禁法や下請法を基本とした新法制定により保護しつつ、労働者性が認められる場合は労基法を適用していくという考え方は、多様な働き方を進めるなかにあって使用従属関係が求められ、罰則が付いて回る労基法の労働者へフリーランス全体を誘導することには無理があると考えている。
そのなかで「新しい資本主義」では、特別加入の対象拡大を図るとし、実際に適用事業の拡大も進んでいて、フリーランスとして働く人の環境整備の一助となると考えているが、行政には適用拡大を切っ掛けに労災補償の基本となる給付基礎日額の決定に際して、特別加入者本人の自由意志を尊重しつつ、本人の過年度所得や賃金基本統計調査等をベースにこれまでの所得に見合った額になるよう制度設計すべきと考えている。
加入後の短期間で労災事故が発生したとして長期間補償を受けようと画策する不正受給の芽を摘んでおく必要があるからだ。悪意のある者達が一人親方等加入団体を結成し、最高額の給付基礎日額により特別加入して数か月後には被災したとして休業補償を受給し続けるという事案は多く発生している。私も府警の協力を得て団体加入者達が摘発された事案も経験している。制度を拡充する以上、不正防止対策の充実を図ることも行政としての当然の責務であろう。

過去記事一覧

PAGE
TOP