総会

会員諸君はまだしばらくそちらで労ペン活動を

2019年8月05日

 
初代代表 バーチャル 矢加部勝美

わが日本労働ペンクラブの会報が、2019年5月25日号で200号になったそうです。49人の同志とともに、81年1月12日の結成後、同3月20日に創刊号を発行して以来、105号(02年12月12日号)まで、私は、足かけ22年間にわたって、代表を務めましたが、これもひとえに同志・会員のみなさんのおかげです。あとひと月足らずで、創立30年という、2011年12月26日、残念ながら、心不全のため、私は皆さんにお別れをいたしました。92歳でした。  
本日、幹事会から頂戴いたしました「天国メール」で、200号を知り、感涙にむせぶばかりです。会員も200人回復まであと一歩。会員構成は、結成当初に比べ、記者の出身者は少なくなりましたが、その代わり、経験豊富な研究者、労働組合活動家、経営者、行政機関関係者ら多士済々の方々が入会し、新しい時代の新しい労ペンに脱皮しています。  
われわれ戦前派(ベトナム戦争や湾岸戦争ではない!)からすると、昭和が平成になり、令和になったそうですが(これも天国メールで知りました)、時代がどんどん変化していく中で、「ペン」を基軸にする労ペンとしては、社会に問い続ける作業を続けてほしいと思います。労働とはなんなのか。労働組合とはなんなのか。働き方をどう変えればよいのか。労働問題は姿かたちも変貌し、複雑に絡み合っています。労ペン会員が、生涯現役で取り組まなくてはいけない課題は山積しています。  
こちらは、全くよい世界で、生老病死の四苦から解放され、毎日、こちらに来た同志の方々と、時には、麻雀をやりながら(そういえば、労ペンに囲碁の会もつくったが、どうなりましたかな)、議論を続けています。労ペンの現会員の皆さまは、まだ、こちらに来なくてよいから、さらに、労ペンを盛り立ててください

(矢加部勝美初代代表が存命ならば寄稿していただくところ、「天国メールなど」編集部の独断で執筆しました。文責は編集部です)。

労ペン 最多会員数は、205人

労ペン結成総会時の会員数は50人だったが、その後、順調に会員数を伸ばし、5年後に2倍の113人、25年後には192人を数えた。その後は、2010年4月の会報では200人、同12月には205人を記録した。しかし、3か月後には197人となり、それ以降、190人台が続いている。  
会員の高齢化も進む一方で、50歳代、60歳代の若手を増やし、女性が入会しやすい組織にしていきたい。

あの日あの時」⑤増える会員 減る部数?

会報がスタートしたのは、81年3月(8頁建て、写真1枚)。創設間もないので、会員数は50人(総会には43人出席)。年間予算は65万円余。会報発行費用は三分の一の20万円も見積もっている。年4回程度の発行回数で、この「巨額」になっているのは、なんと印刷部数が、会員数の10倍の500部だからか。創刊時の意気軒高ぶりが伝わってくる。しかし、翌82年になると、印刷部数は一挙に350部に削減(うち配布は200部という)。印刷費用も、12万円と、半分近くになった。建て頁は、4頁から最大12頁(初の訪中報告)。ちなみに、現在の印刷部数は、250部。200部弱が会員の手元に配達され、その他、連合、連合総研、厚労省などにもお配りして、労ペン活動PRの役割りを果たしている。建て頁は4頁を原則とし、内容次第で6頁も。18年度決算では、31万円となっている。原則年間4回発行では少ないという声も。

  

若者よ、困難を乗り越え、労ペンを引き継いで

2019年7月29日

 
第5代代表 稲葉 康生

労働ペンクラブはスルメのような組織だ。噛めば噛むほど味が出る。行事に参加すれば刺激を受けるし、得るものが多い。会員の層は幅広い。メディア、労働界、経済界、官界、研究者など多様な経験と知識をもつ人たちが集まっている。  
労使関係や雇用・労働問題をフォローする団体は労ペンだけだろう。多様な経験や考え方を持った人たちの集まりであり、それが面白い。こういう文字通りユニークな集まりだから、長い間、続いてきたのだろう。労ペンをつくった先輩方に感謝をしたい。

会員になったのは、40代のはじめだった。国鉄の分割民営化、総評の解体、労働四団体の労戦統一と連合の発足、雇用の規制緩和、正規社員の減少と非正規雇用の急増、外国人労働者など、いろんな課題が次から次へと現れ、取材に追われてきた。  
振り返れば、労働問題の状況は好転どころか、厳しさを増している。働き方の見直しや「AI(人工知能)と雇用」の問題など新しいテーマは事欠かない。だから、労ペンの存在理由は失われないどころか、ますます大きくなっている。

労ペン会報が創刊以来200号になった。継続は力なり、という言葉を改めてかみしめている。新聞記者は飽きやすく、冷めやすいと言われてきたが、そうでもない、と言いたい。  
旧労働省と厚生労働省の合併で労働記者が減少しているのが気がかりだ。そもそも厚生と労働行政を政治の都合で無理矢理一つにしてしまった行政改革は失敗だったと思う。  
とはいえ、いつの時代も困難はある。労働関係に関心のある若い人たちには、そうした壁を乗り越えて、労ペンクラブを引き継いでいってもらいたい。

【会報ばんざい】会報は労ペン会員の絆 生の意見の交流を願う

板東  慧

1970年代のある日、評論家の矢加部勝美さんから声をかけられて、「何かクラブ的な組織をつくらないか」と誘われた。その頃、関西と東京と離れてはいたけれど、総評や産別組合などの討諭集会や単組の講演会などにお互いに招かれてお会いすることが多かったし、気ごころも通じていたので、二つ返事で応じて私が関西の仲間に呼びかけ、矢加部さんが東京中心に呼びかけてできあがったのがわが「日本労働ペンクラブ」でありました。  
その頃はもとより、労働組合のさまざまな課題はあったが、何といっても「労働戦線統一」が最も中心的なテーマであり、そのアプローチを巡ってはそれぞれの意見も立場もあったが、その必要性については誰も異論のないところであったし、論者にとって情報交流や意見を述べあう場が必要であり、「労ペン」はまたその役割を果たしてきたと思います。

労ペンは、評論家・研究者・運動家が自由に議論し問題提起する場として、その後拡大発展し、「労ペン」の名の下で親しまれ、機関誌はもとよりこのクラブの絆として役割を果たしてきました。  
今回は、その労ペン会報の「200号記念特集」で、まことに喜ぶべき日を迎えました。  
これからも、会員の拡大とともに、会員の「生の意見の交流の場」として様々な会議と機関誌が役割を担っていけるように願っております。

関西豆知識

関西支部は、91年10月20日に神戸で結成総会を開いた。板東会員が初代代表で、7人でスタート。現森田代表は五代目。結成総会に合わせて、初の神戸見学会を行い、東阪連携はこの時に始まった。人事労務の専門家が多く、記者出身をどう増やしていくかも課題。

「あの日あの時」④繰り返されるオフレコ破り

労ペンへの信頼を揺らがすような「事件」が発生したのは、発足2年後の83年6月22日の「公労委を考える会」がきっかけだった。第9号(83年9月10日号)によると、公労委のメンバー(労ペン会員)からの話を聞く会だったが、これを7月28日付の全国紙のコラムでとりあげた。講師からはオフレコが前提で話したこと、趣旨も違っている―などのクレームがついた。当該新聞社と講師間で解決策がまとまったが、労ペンとしても、①スピーカーの意思を最優先、②(記事化する場合は)事前にスピーカーの了解を求める―ことを呼びかけた。しかし、この後も、86年10月、鉄労組合長のヒアリング発言が文書化され、第三者に配布される騒ぎが起きたり(第22号)、93年5月、春闘ヒアリングをめぐって、「オフレコ原則を逸脱したかに見える報道、部外者へのリーク等があり、関係者に迷惑をかけた」と注意喚起する記事(第50号)が見える。

  

路頭に迷いかけた労ペン

2019年7月22日

 
第4代代表 久谷與四郎

「労働ペン」200号おめでとうございます。事務所にある綴じ込みは、労働ペンクラブの長い歩みの証言そのものです。  
さて、「労働ペン」について、代表に在任中の思い出を書けという注文ですが、正直なところ、これという思い出が浮かびません。機関誌担当の幹事にお任せしていたからです。その理由は、私が在任中、労ペン自体がある意味、路頭に迷いかねない危機に立たされる事態が起きたからです。

労働ペンクラブは創立以来、独自に事務所を持たずに、長い間丸の内の東商ビル内にあった日本労働研究所に、その後は日本ILO協会にヤドカリしていました。ILO協会の一角に備品を置かしてもらい、その会議室で幹事会開催という具合です。その協会が政府方針で解散することになったのです。世話になれる中立的団体は他になく、あわや路頭に迷う運命に直面しました。  
そこで、私と会計の坂田さんと二人で、上野、渋谷などの不動産屋巡りを繰り返しました。適切な物件はなく、結局は現事務所の宗保ビルが大手町、神田駅から近く、会員が集まりやすいことから、そこに決めました。ILO協会の調度品をもらえる利点もありました。  
その結果もちろん、財政を大きく圧迫することになりますが、会員との連絡を往復郵便から現在のようなメール方式への切り替え、労働ペンへの広告掲載、会員相互の集まりや研究会への事務所貸し出し、会費のほかに会員からの寄付(維持会費)募集などの方針を決めました。その後、会員連絡のメール化以外にはあまり実現されていないのは残念に思います。

会の健全運営の基本は、やはり会員数の増加が第一。労働問題の多様化に対応して、会員の活動分野の拡大も必要と思います。もちろん、"ムダの排除"の努力は永遠の課題であり続けるでしょう。

【会報ばんざい】会員の息遣いがわかる紙面を

松田 宣子

200号、おめでとうございます。それだけ月日がたったのですね。  
私の会員番号は131。クラブの末席を汚すようになってから三十年あまり経つ計算になる。

今だからいうが、当時のクラブの中は男社会。先輩に推薦されて入会したものの、若輩(まだ私も四十代だった)の身は殆ど無視される状態に近く、借りてきた猫同然にしていた。阪神・淡路大震災直後の視察旅行に参加した時も、はぐれないように、参加者の後を追って行くので必死だった。  
ようやく、労働ペンクラブの一員だと、自覚できるようになったのは、幹事に選ばれ、広報担当になってからだった。それとて、はじめは、すでに退会しておられる先輩の付き人みたいな役割で、会報の発送が専らだった。やがて、他の男性会員二人と、編集を担当するようになり、同時に印刷所への提稿や校正の大変さも味わった。  
年配の先輩の中には、FAXも利用していない方もいて、ゲラ校正も郵送になる。その都度、電話の確認も必要なのだが、怖い大御所だと、おっかなびっくり。また、締め切りを守らないご仁もおられ、新聞社のデスクの苦労もかくやと思われた。パソコン・メール時代の今では昔話や笑い話になってしまうが。  
現在、自分はそういった現場から遠い立場になってしまったし、労働ペンクラブの男社会的な雰囲気もだいぶ変わったように見える。が、その反面、会報にも無難な安定感が感じられるのが少々気にかかる。

機関誌はまずは会員の情報を共有する大事な場だが、ときには、思い切った企画も欲しい。編集担当には負担かもしれないが、テーマを掲げた意見交換の場も望みたい。会員層も世代交代を迎え、この喜寿のババは大勢の息遣いが紙面で分かるといいな、と思う。昨今はやりの言葉を使えば、サステナブル会報を心から祈念します。

「あの日あの時」③ロマンのキャンドル、メリケン波止場

「ロマンのキャンドル、愛のエレクトーン」。今から見ると、かなり黄ばんだ言葉ではあるが、これは、早くも、第2号(81年7月10日号)に掲載された広告だ。出稿元は、全逓会館結婚式場。81年1月に産声をあげた労ペンだが、母乳にも等しい資金は会員から納入してもらう年1万円(当時)の会費だけ。先輩たちの脳裏に、収入増対策が浮かんだのは極めて当然の成り行きだろう。さらに、第3号でも、「メリケン波止場の見える」横浜逓信会館の広告も見える。第10号では、全逓会館結婚式場が2回目の登場。その後、広告掲載は絶えて、第164号(2012年10月10日号)(明石書店「アメリカの労働社会を読む事典」)あたりから散見され始める。

  

3つの理念と3つの課題

2019年7月16日

 
第3代代表 飯田 康夫

理念=人間の尊厳こそ労働の原点・労働は商品ではない・ディーセントワーク 課題=雇用の安定・労災事故ゼロの安全第一・組織の拡大

労働ペン創設時、存在感を鼓舞してきた労働界トップリーダーを招き、東京・芝パークホテルでの発足総会の姿が、いま鮮明に蘇る。
小生の記者生活は、労働記者一筋、60有余年にわたり刻み続けることができたのも「労働ペン」の存在なくしてはあり得ない。  
労働ペンでの取材で気付かされたのは、経済・経営環境に振り回される労働者の姿だった。  
なべ底景気(昭和32年)や就職氷河期、止む無く不本意な選択をせざるを得なかった世代。非正規という不安定な雇用では勤労者生活の安定は実現不可能だ。これでは再生産に結びつかない。

今日、職場に嫌がらせの風土が蔓延っていないか。"人間の尊厳"が蔑ろにされる企業社会は、健全な姿ではない。
ILOのフイラデルフイア宣言には"労働は商品ではない"という崇高な理念がある。人間を商品以下のような扱いをしていないか。  
"ディーセントワーク"(働き甲斐のある、人間らしい仕事)の理念を職場に浸透させたいものだ。  
労働記者1年生の頃、労災事故で亡くなる労働者が年に6千人を超えていた。人命軽視の企業活動の結果では余りにも痛ましい。  
労働記者の後半、労働保険審査会委員を任命され、過労死や過労自殺、嫌がらせ、セクハラ・パワハラなどの事案に関わってきた。労災事故に遭遇した労働者家族からの悲痛な声を聞き、過労死ゼロ、パワハラ撲滅に向けた職場づくりの大事さを学んだものだ。

労組組織化の課題も重要だ。数は力である。連合結成から30年。常に1000万連合を掲げながら、数は減る一方だ。が、非正規労働者の組織化が伸び、正社員労組員より非正規労組員が多数派を占めるという不甲斐なさが出現することもあり得る。労組リーダーに組織化の大事さを改めて訴えたい。

【会報ばんざい】労ペンの旅

鎌田  慧

労働ペンが創立されたころ、もう「四十年近く前」になるとのことだが、毎年のように、「視察旅行」に出かけていた。  
最初が「労働ペンクラブ東南アジア視察団」のご一行で、タイ、マレーシア、シンガポール。労使代表に会って、インタビューができる、なかなか便利で楽しい旅行だった。  
そのあと、自分でフイリピンやインドネシアの工場を見学して、ちゃっかり『アジア絶望工場』というタイトルの単行本にさせていただいた。それで労働ペンクラブ賞を頂いている。

労ペン視察団は、東南アジアばかりか、中国にもなんどか行ったので、それに加えて頂いて全国総工会と交流した。北京ばかりか、昆明、桂林、深の工場も見学できた。「世界の工場」になる前。いまの大国中国を準備していたころだった。それから中国の「現代化」が、急速に進んだ。  
これまで、労ペン視察団はどれほどの距離を視察旅行したのだろうか。会報を整理すると全容が判明するのであろう。  
敦煌までいったとき、わたしはある雑誌に「敦煌の彼方へ」と書いて、同行したひとたちから、不思議がられた。タイトルが意味不明だったからだ。  
敦煌は静かな町で、思い出深いのだが、そこから、さらにシルクロードをはるか西へ行ってみたい、との夢想を書いたのだ。  
後年、西安からバスでウズベキスタンまでいくツアーにはいることができた。それも敦煌までいった「視察団」の影響だった。

最近、また、ミヤンマーとラオスに連れて行って頂いた。と書くと、まるで旅行に行くために入会したように聞こえるが、この会の魅力は、ほかのかたが十分に書かれることでしょう。  
とても勉強になる会なのだ。

「あの日あの時」②お引っ越しは計6回!!

結成時の事務所は、銀座6丁目ウエストビル6階の銀座出版社内だった。同社代表で設立時メンバーの内海一栄氏の好意により、家賃は無償。しかし、結成5周年を迎えたばかりの、86年3月、同氏が死去、銀座出版も解散。新事務所が必要に。第19号(86年6月1日)のトップは、「新事務所決まる」。港区芝2丁目の芝園ビル8階に入った。5周年を伝えた18号は、同年1月の発行だから、およそ半年も会報は発行されず、混乱ぶりが伝わる。さらに、その2年後の第27号(88年11月1日)では、同じ芝2丁目の阿部ビルに転居。ここもすぐに引っ越し、第29号(89年5月25日)から、丸の内の東商ビル内の日本労働研究所に間借り。以降、東商時代が続く(途中1回ビル内転室)。家賃は年間60万円。年間総予算の3分の1。さらに、ILO協会の好意で、現在の宗保ビル2階に間借り。同協会の解散で、2011年4月から5階に独立事務所を持った。

  

活発な提言で「列島沈没」回避へ

2019年7月08日

 
第2代代表 小井土有治

2003年の労働ペンクラブ第24回総会を、会報106号は「期を画する総会」と報じた。その理由は「クラブ創設以来22年間代表を務めた矢加部勝美氏が退任、クラブの活性化と活動領域拡大のための規約改正」である。規約改正は、任期規定がなかった全役員の任期を1期2年、2期としたことである。総会は矢加部氏を名誉代表に推挙することを決し、多くの新役員を選出した。代表の重責を担うことになった小生は、労働運動、労働環境が重大な転換点にあるとの認識から、会員に自発的、積極的な提言と企画への参加を要請した。

海外活動では2004年に北京や大連、旅順を訪問し、「中国のITの目覚ましい進展」などを視察した。2006年には広州、昆明などを訪れた。何度も訪中したが、特に強い印象は通常は入れない北京の中南海という要人の居住域で会見行事が実現したこと。労ペンが14年ぶりに韓国に視察団を派遣し、韓国労働ペンクラブと意見を交わしたのも印象に残っている。日韓関係が最悪の状況になるとは想定できなかった。

日本は昭和の敗戦から目ざましい発展を成しとげ、1億総中流とか世界第2の経済大国と声高にいわれたことがあった。しかし、今や、中国が米国と経済大国の地位を争う状況に"激変"している。日本は人口減少、少子高齢化が顕著で、先行きが全く不透明である。女性の登用も急務である。会報には、小生が2004年度総会で「景気の回復、雇用の回復、気分の回復の3Kを訴えた」と出ていたが、日本の閉塞感を払拭する必要性は大である。現執行部が活発な提言活動などを行い「列島沈没」はぜひ回避していただきたいと強く願っている。

【会報ばんざい】若い(?)会員の奮起に期待!

櫻井(藤井)龍子

はじめに労働ペンクラブに入会させてもらったのは、労働省を退官(平成13年)してしばらく経ってからのことだったと思う。  
昭和55年から3年ほど、私は労働省労政局労働組合課という今はなきユニークな組織で課長補佐をしていたので、労使関係をはじめ労働問題が社会変化との相関においてどうなっていくのか強い関心があった。労働戦線統一により連合ができ、政権交代も経験し、世の中に一種の緊張感が漂っていた時代であったから、労ペンの主催する講演会、視察、海外調査などにも積極的に参加し、大いに刺激を受けた。

特に、平成16年の労ペンの韓国調査に参加した際には、韓国の非正規労働者問題と非正規労働者保護法成立の動きを知り、将来の日本の姿につながるのではという問題意識を持った。その後独自の調査研究を深め、その成果をNHKの「視点論点」で解説したり、日経新聞やエコノミストに記事を書かせてもらったりした。手前みそだが、先見の明があったと思っている。

また当時は、かつて春闘華やかなりし頃に、筆や弁の立った、それこそ労働省記者クラブのヌシだったような記者さんがゾロゾロおられたので、彼らの話を聞くだけでも、ドラマを見るようで面白かったことも懐かしい思い出である。

その後、図らずも最高裁判所の判事になったため、すっかり労働問題から遠ざかっていたが、一昨年の1月に定年退官したので、労ペンに再加入させてもらった。  
しかしながら、歳のせいか、懐かしい猛者連中のお顔が見られなくなったせいか、はたまた世の中の変化のせいか、どうも各種行事への出席率が低くなってしまい申し訳なく思っている。  
労働問題がいよいよメインロードに押し出され、複雑化の様相を呈している昨今、ここはぜひ若い(?)方々の奮起を期待したい。

「あの日あの時」①対外的に猛烈アピール

会報創刊号が発刊されたのは、81年1月12日の労ペン発足を受けて、2か月ほど遅れた同年3月20日号。B5版8頁建て。紙は白色紙で、字の大きさは8ポほど。「ジャーナリストも研究家も初めて一堂に 盛んなクラブ結成」―。一面トップ。サブ見出しで「会員すでに五十人に達す」とうたった。掲載された写真は1枚だけ。会員50人なのに、500部も印刷しているのはなぜか。

その後、82年には、350部印刷し、200部を会員(85人)らの配布用。大河内一男、平田富太郎、高橋正雄の碩学三氏に顧問を委嘱するなど、発足当時は、対外的にアピールする意識が濃厚だったようだ。ちなみに、現在の印刷部数は250部。外部への送付は20部弱だ。

  
   
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