関西支部発

虚構の創造(想像)が生んだもの

2023/03/13

 
関西支部会員 今 村 武 司
関西支部通信第38号(23年1月号から転載)

どうも7万年前から3万年前に私たちの先祖は「虚構の創造(想像)」をしたらしい。ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作である「サピエンス全史(柴田裕之氏訳)」に、そう記されているとのことだ。残念ながら、不勉強な私は読んでいない。噂話を聞いたに過ぎない。

私たちと同じような脳容量と体躯を持ちながら、東アフリカ等で細々と暮らしていたご先祖様は、「虚構の創造(想像)」に「言語の発明」を絡み合わせ、「虚構」の共有を生んだ。それは私たちに圧倒的な力量を与えた。そして、私たちは世界を制覇し、自然を改変していった、という風に、その噂話を理解することができた。

ここから、下記のごとく私の妄想が展開する。

「虚構」とは何か。多分社会はすべて「虚構」である。国家、政治、宗教、貨幣、等々。これらは、共同主観(共同の思い込み)によって成立している。紙幣が分かりやすい。なぜ、紙きれに価値があるのか?国家の信用という裏付けがあるからであろう。しかし、それはその紙幣を利用している個々人が測定したものではない。共同主観の賜物であり「虚構」である。ヒトは東アフリカから出発して「虚構」を積み重ねて現代社会を作り上げ、太陽系の外にまで人工物を送り込むようになっている。

このように「虚構」の積み重ねで幾多の文明を築いたと言えるが、果たしてヒトは幸せになったのであろうか。ヒトが地球そのものに大きな影響を与え、地球温暖化に代表される気候変動、人為的影響による絶滅=自然環境の多様性の劣化、人工物質による環境汚染などを引き起こし、ついには「人新世」という地質区分名が提案される事態になっている。実は、ヒトとは知恵の実を食べてエデンの園を追放されたアダムとイブそのものではないのか?

ヒトを除く動物は「虚構」を持たない。「サルが相手では、死後、サルの天国でいくらでもバナナが食べられると請け合ったところで、そのサルが持っているバナナは譲ってもらえない」という記述が前掲著作にあるということだ。また、彼らは死という「虚構」を持たない。死期が来れば生命活動を停止するだけだ。それがどのようなタイミングであっても、ヒトの目から見ると静かに受け入れるだけである。ヒトのように死を恐れたり、あの手この手で死期を先に延ばそうと努力したりはしない。

当然だが、機械にも「虚構」はない。パソコンの仕事の仕方とヒトの仕事の仕方の違いでよく分かる。昔流に言うとパソコンのモニターで砂時計が回って処理遅延を示していても、ヒトは逆にクリックを繰り返したりして、別の指示を出し続けたりする。無垢なパソコンは出された指示をその順番通りに処理をするので、ますます砂時計は回り続けるのである。パソコンにはサボる、無視する、テキトーにするといった「虚構」から得られる選択肢はないのである。ヒトはその要領の悪さ?に辟易するのだ。ヒトの「虚構」の中では、いやしくともパソコンである以上は指示された処理は直ちに実行されなければならないという前提があり、サボったり無視したりテキトーにしたりしないのは要領が悪いのである。パソコンが処理遅延を明確に示していてもこうなるのであるから、もはや、ヒト=認知障害と言ってもよいかもしれない。機序から言うと「虚構」に侵されて現実を見失っているのだ。

「虚構」という知恵の実のおかげで文明は築けたが、「虚構」に侵されて愚行も絶え間なく続くのである。疑う方は歴史を、そして毎日流れるニュースをご覧になればよい。「虚構」の光と影である。

閑話休題、われわれの身近にある人的資源管理も、マネージメントという「虚構」共有化ツールを活用した、共同主観を構成する作業と言えるのではなかろうか。そして、労使関係は、労働者と使用者が目指す「虚構」が交わる部分と言えるのかもしれない。「虚構」に侵されることのない共同主観構成を目指して・・・。

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