労働遺産

労働遺産を後世に伝承 2022度第2回労働遺産認定(会報216号=23年5月25日から転載)

2023/06/12

 

労ペン初の取り組みである「労働遺産」認定事業の第2回認定証が先の総会で2件、5団体に交付された。「わが国における『8時間労働制』の実施発祥の地」では、①『怠業中松方社長對職工側委員會見録並営業時間及賃銀改正ニ關スル顛末』(川崎造船所編)、②「八時間労働発祥の地」の記念碑が労働遺産に認定された。

「戦前実業家の労働理想主義による労働環境改善と社会貢献(大原孫三郎等)では、①工場の作業環境改善と労務管理近代化での一連の遺物・資料」(倉紡記念館)、②「労研」と「大原社研」の創設期の資料と遺稿等(倉紡記念館、愛染園、大阪府)が労働遺産に認定された。
尚、認定対象案件の「大原社研の大阪時代のプレートと記念碑」については所有者調査を継続することになった。

今回、認定を受けた労働遺産を所有または所蔵・管理する5団体に認定の喜びと労働遺産の意義についてご寄稿いただいた。

「八時間労働発祥の地の記念碑」認定を受けて

一般社団法人兵庫労働基準連合会
専務理事 高尾聡

この度、「八時間労働発祥の地の記念碑」を貴クラブ認定労働遺産に認定賜り、厚くお礼申し上げます。

本年1月に認定証をお受けし、早速私どもの会報誌「六甲展望」3月号にて認定式の様子など報告させていただいたところです。

この碑は、大正8年、当時の川崎造船所の松方幸次郎社長がわが国で最初に八時間労働制を実施したことを記念して平成5年11月に建立したもので、場所は兵庫県神戸市のハーバーランドの港に設置され、間もなく30年を迎えますが、どなたかの温かい手によりきれいにされ、今もピカピカに輝きを保っております。

設置に至った経緯は、昭和63年に1週40時間労働制が労働基準法に規定され、平成6年4月1日施行を目前とする時期に、あらためてその元となった8時間労働制発祥の地と言われているこの地に記念碑を建てようという機運が高まったことによるもので、兵庫労働局(当時は兵庫労働基準局)をはじめ、兵庫県、神戸市のほか多くの関係団体の協力により実現に至ったものです。

この記念碑は、彫刻家の井上武吉氏(現在の宇陀市ご出身)の作によるもので、碑の形は時の流れを表すものと言われています。また、工場での旋盤加工の際にできる切粉(きりこ)をヒントにしたものとも言われています。切粉の形を見ると、らせん状のものもあり、スパイラルアップですとか、マネジメントシステムにおけるPDCA( plan do check act )を説明する場合にも使われ、まさに時の流れを示すものではないかと思います。

記念碑の設置からもうすぐ30年を迎えますが、この度の認定を機に、今一度多くの方に関心を持っていただき、働く人たちの健康と更なる快適な職場環境の実現につながることを願っております。

誠にありがとうございました。貴クラブのますますのご発展を祈念してお礼の言葉とさせていただきます。

労働遺産と坂西由蔵先生

神戸大学附属図書館
情報サービス課課長補佐 菊池 一長

このたびは当館所蔵の『怠業中松方社長對職工側委員會見録並営業時間及賃銀改正ニ關スル顛末』を労働遺産に認定いただき、感謝申し上げます。

本学社会科学系図書館に所蔵するこの資料は、本学の前身校である、神戸高等商業学校の教授だった坂西由蔵先生が入手したもので、先生の没後昭和25年に当館へ寄贈され、「坂西文庫」として所蔵することになった旧蔵書の中の1冊です。資料を確認すると、表紙に「株式会社川崎造船所」とあるものの、奥付など出版・販売に関する記載がないことから、販売等によって世に広く出版・流通を意図したものではなかったとうかがえます。所蔵目録のデータに「79p ; 19cm」とあるように、図書よりは冊子と呼ぶのが相応しい、ごく小さく薄いものです。館内に展示しているレプリカからもその小ささがわかりますが、当館の貴重書庫に保管されている現物を改めて確認すると、紙質や経年変化もあって、さらに薄く小さい印象を受けます。

「坂西文庫」には、他にも企業の内部資料や自治体の報告書の類の小冊子がいくつか含まれていて、件の冊子の現存も、坂西先生の資料収集における関心と尽力があればこそです。8時間労働制の実施発祥にまつわるこの小さな資料が、舞台となった造船所の所在地である神戸にある本学に伝わったことに、深い縁を感じるところです。

話は変わりますが、今回の認定に関連する当館の取組として、「デジタルアーカイブ新聞記事文庫*」を紹介します。「新聞記事文庫」は、本学経済経営研究所によって作成された、明治末から昭和45年までの新聞記事切抜帳のコレクションです。国内や旧植民地発行の各紙を対象に、専門の教官が記事を選択・分類して切り抜き台帳に保管したもので、当館ではそのデジタル化を進めています。切抜帳は商業・経済を中心としながら政治・社会・教育など多岐にわたる分野を含んでおり、この中の「労働問題」の切抜帳には、8時間労働制実施の契機となった川崎造船所での争議も含む、約5千件もの記事が採録されており、当時の労働問題を今に伝えています。

この新聞記事切抜事業開始の提唱者が、他ならぬ坂西先生であり、ドイツ留学中にケルンの商業大学で、新聞の切抜が研究の基礎資料として整理・保存されていることに刺激を受けたのが発端とのことです。労働遺産の継承における、先生の貢献の大なるを思います。

新聞記事文庫

https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/

所蔵資料の価値を再確認する大変よい機会

大阪公立大学学術情報課
図書情報担当課長 伊賀 由紀子

この度は本学の所蔵資料を日本労働遺産としてご認定いただき、誠にありがとうございます。「働く現場の歴史を後世に伝承する」という貴クラブの意義のある事業活動で本学資料を取り上げていただきましたこと、大変光栄に存じます。

この『怠業中松方社長對職工側委員会見録並営業時間及賃銀改正ニ関スル顛末』は、日本における8時間労働制の導入につながった、日本労働史上重要な位置づけをもつ川崎造船所の労働争議の記録ですが、賃上げのみならず、労働環境・条件に関わる多岐な課題についての松方幸次郎社長と労働者側の丁々発止のやり取りが事細かく記載され、当時の労働争議の空気をリアルに伝える非常に興味深い資料です。

本学図書館がこの資料を受け入れた経緯は、当時より残されている図書原簿の記録と現物に記載された情報から類推するしかありませんが、現物に「河田」の名が記されていること、1937年(昭和12年)12月1日に同じ証憑番号で図書675冊が受け入れられ、それらにも「河田所長寄贈」「河田学長寄贈」などの記載があることから、大阪商科大学の初代学長で、大学に附設されていた大阪市経済研究所の所長を兼務していた河田嗣郎からの寄贈図書であることは明らかです。「寄託」の印も押印されていましたが、一部に消された跡もあり、一旦寄託資料として預かったのちに、改めて寄贈受入をしたものと思われます。

河田が1942年(昭和17年)に急逝するまで、14年にわたり学長職を務めた大阪商科大学は、1928年(昭和3年)に日本初の市立大学、市民の大学として、大阪の行政や財界の後押しにより誕生しました。大阪市経済研究所と共に、ゾンバルト文庫や福田文庫などのコレクションを購入するほか、一般の流通ルートでは入手しがたい文献も多数収集しております。それらの資料を引き継いだ杉本図書館は、現在でも国内有数の蔵書数を誇る大学図書館です。本学は新制大阪市立大学を経て、昨年度大阪府立大学と統合し、「大阪公立大学」となりましたが、大阪商科大学時代からの歴史と伝統を守りつつ、その蔵書を今も広く利用に供しています。

今回、労働遺産認定をいただいたことは、本学所蔵資料の価値を再確認する大変よい機会となりました。今後もこれらの資料を貴重な遺産として後世に伝えるという役割を果たしていきます。

最後に今回の認定について、選定、審査等に関わってくださった皆様へ、改めて深く感謝の意を表します。

大原孫三郎の想いを引き継ぎ 人と社会を繋ぐ架け橋に

倉敷紡績株式会社(クラボウ)
総務部長兼倉紡記念館館長 小松 亮

この度は、日本労働遺産に認定いただきありがとうございます。

当社は、1888年に創業、今年で135年を迎えます。祖業は紡績の会社ですが、今では繊維事業以外に、化成品やエレクトロニクス、エンジニアリング、バイオメディカルなど様々な分野に事業を広げています。

当社の第2代社長の大原孫三郎は、会社の発展以外に、倉敷のまちの発展にも貢献した人物です。また「労働理想主義」を掲げ従業員の労働環境の改善のため、労働科学研究所や倉敷中央病院などを設立しました。労働科学研究所は、工場の従業員の健康を考え、労働環境を科学的に調査・分析し、改善のための対策を打ちだす研究所です。

倉敷中央病院は、創設時は従業員の健康管理や治療などを担う病院でしたが、その後、地域社会の皆さんにも開放し、現在では地域社会の医療の充実に貢献しています。また、倉敷美観地区にある大原美術館も大原孫三郎が設立した施設です。地域社会の皆さんに西洋の文化に触れてもらう機会を創出する意味も込めて、日本で最初の西洋美術を中心とした私立美術館として開館しました。このように、今でいうSDGsの取り組みをいち早く実践してきたのが大原孫三郎です。

今まさに、このSDGsが重要視される時代になりました。これまでは、単に企業の利益を社会に還元することが中心でしたが、今では経営戦略の中に「人のため」「社会のため」に貢献していく姿勢、戦略を盛り込むことが必要不可欠です。大原孫三郎が取り組んだ様々な施策は、現代のSDGsそのものであり、その歴史を現代に受け継ぐ私たちとしても誇りに思っています。

今回、日本労働遺産に認定された展示物を収納する倉紡記念館は、倉敷美観地区の中心に位置する当社の創業時の工場を活用したホテル「倉敷アイビースクエア」の一画にあります。倉敷美観地区もここ2、3年はコロナで非常に寂しい状況が続いていましたが、去年の秋ごろからようやく観光客が戻ってきており、賑わってまいりました。本年4月にはG7倉敷労働雇用大臣会合が倉敷アイビースクエアで開催され、大原孫三郎の取り組みが改めて注目されています。今回の日本労働遺産認定も踏まえて、この機会に私どもが受け継いできたクラボウのDNAをしっかりと社会に発信していきたいと思います。

大原孫三郎の想いを引き継いだ我々が、これからも、人と人、人と社会を繋ぐ架け橋になり、従業員はもちろん多くの地域・社会の方々の安心・安全に暮らしていける、より良い未来社会づくりに貢献できる企業として研鑽に努めてまいりたいと思います。

石井十次と大原孫三郎

社会福祉法人石井記念愛染園
法人本部事務局次長 塩見 俊一

この度は、日本労働遺産に認定いただきありがとうございます。最初このお話をいただいた時には「労働遺産でなぜうちの法人が認定されるのか」と疑問に思ったのですが、認定のタイトルで示されたように、大原孫三郎の大きな事績の一つである社会貢献の証と納得しました。

さて、私共は「石井記念愛染園」ですが、この法人名の「愛染」は大阪市内にある「愛染橋」のそばで事業が始まったこと、また「石井記念」は、「社会福祉の父」と言われる石井十次の事業を受け継いでいることに由来しています。

石井十次は宮崎の出身で、医師になるため岡山に住んでいた折に、巡礼の親子の母親から、姉弟のうち一人を預かるように頼まれ、弟を引き取りました。これを切掛けにして石井は子供を預かるようになり、1887年に岡山市内で後に「岡山孤児院」となる「孤児教育会」を創設しまず。その後、濃尾地震や東北の大飢饉等の度に預かる子供を増やし、同孤児院では最盛期に1200人の子供を預かることになりました。(石井が最初に子供を預かることになった「太子堂」は地元の皆さまに守られ、また岡山孤児院の建物の一部は移築され、石井十次記念館十次館として、今も当時の姿を残しています。)

石井はこの活動を岡山のみに留めず、宮崎県茶臼原で自給自足の生活を目指し、荒地を開墾して孤児院を開設します。(この事業は社会福祉法人石井記念友愛社として現在もなお続いています。)また、孤児を助けるのみならず、孤児を生まない社会を築くことを目指し、1907年に大阪と東京で事務所を開設し、1909年に大阪で「愛染橋保育所」や「愛染橋夜学校」を開設して、親の就業を支援する事業を始めました。これらの活動を進める中で、石井は大原孫三郎と出会い、敬虔なクリスチャンという共通点を通じて互いに共感し、親交を深めることとなり、大原は石井の活動の経営面・経済面の支援を行います。

1914年に石井が病没すると大阪での事業は存続の危機に直面しましたが、石井の志を受け継ぐべく大原孫三郎が中心となり、1917年に当法人が設立されました。以降、石井が始めた隣保事業に加え、親の病死を少しでもなくし孤児を生まないため、1937年に「愛染橋病院」が開設され、介護保険制度の開始に併せ、2000年に特別養護老人ホームや訪問介護ステーション等の高齢者福祉施設を開設し、現在に至っています。

当法人は、これら三つの事業を柱に石井や大原が信奉したキリスト教の「隣人愛」の精神の下に、地域の皆さまのお役に立てる存在でありたいと日々活動しています。いずれの事業も行政の社会保障支出の抑制策や、事業を担う医療・福祉人材の不足等、厳しい環境に置かれていますが、これからもさらに研鑽を積み、石井や大原の志を後世に繋げていきたいと考えています。

  
 

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