私の主張

追悼・山田行雄さんを偲ぶ

2023/06/12

 

山田さんの死を悼む

会員・神津 里季生

山田行雄さんがついに逝ってしまった。

ガンを患い、がりがりになられた姿をみたときに、この日の来ることを覚悟はしていたが、その後いったん持ち直されたことで、いつかまた痛飲しようと思ってそのままになってしまっていた。連合会長を退任して以降お会いする機会自体が少なくなっていたし、その前からのコロナ禍で、そういう場自体がめっきりと少なくなっていた。

山田さんとよく会話するようになったのは2013年の秋からのことだ。それまでにもそれなりに面識はあったが、酒を飲みながら語る機会を得たのは私が連合事務局長時代、記者会見に来てくれるメディアの方々との月一回の飲み会を始めてからであった。

お互いに真っ正直な会話を重ねるなかで、あの人なつっこい笑顔にすべてのことが包含されていたと思う。

連合の記者会見は、基本的に来るもの拒まずである。この飲み会(スタッフが「連合サロン」と命名していた)も来るもの拒まずであった。大手メディアや専門紙・誌のベテランも中堅も若手も、あるいは独立系というのか何かよくわからない人も、そして赤旗の記者氏も常連メンバーであった。

そんなメンバーの誰とでも同じように、楽しそうに、なんのてらいもなく、山田さんは会話をされていた。

そういう姿勢だったからこそ、彼の持つ情報は幅が広く、実践論に裏打ちされた深みのあるものであったのだと今さらながら思う。そしてそのような蓄積を惜しげもなく披瀝する山田さんの話を聞くことで、若い記者たちはきっとずいぶん勉強になったと思う。

あらためて思う。すべての人たちとつながり、そしてその輪をこれからの人たちにつないでいくという、このような姿勢はまさに労働運動が基本とすべきものだ。生涯、労働運動・労使関係のあるべき姿に迫ることに情熱を傾け続けた山田さんが、いわば自然に身につけていたものだったのだろう。

いつかあの世にいったときに、できるだけ早く山田さんと再会したいものだ。あの笑顔と飲みっぷりは、まさに天国での酒盛りにふさわしい。

山田さん、ありがとう。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

「泥臭さと直言で愛された労働記者」

会員・大澤 賢(経済ジャーナリスト)

山田さんとは実質10数年のお付き合いだったが、なぜか懐かしく、幼馴染のような親近感があった。最初に出会ったのは2005年1月、日本記者クラブで開かれた総会・新年会である。あふれる人波の中で名刺を交換した後、彼は笑顔でこう言い放った。

「まあ、わからないことがあったら何でも聞いてくれ」...。
野太い声と凄みのある顔。体格以上に大きく見え、存在感があった。先輩と思っていたら、1946(昭和21)年生まれの同級生だった。

山田さんとはその後、労ペンの勉強会や春闘ヒアリング、労働団体の記者会見など、折に触れて会った。小生は労働分野の取材は初めてだったから、彼の豊富な経験談は大いに役立った。

例えば、戦後労働組合の変遷や連合発足後の歴代会長人事の舞台裏などは貴重だった。彼はまた、"働かせ方改革"や非正規雇用の増加、抑制的な春闘要求など、政府だけでなく連合に対しても批判的だった。「本当に労働者のことを考えているのか」が、彼の行動基準になっていたと思う。

世の中の変化に対する観察眼も鋭かった。「労ペン設立25周年記念誌」(2006年1月)では、『マナーを忘れた日本人』と題して、電車内の子供や若い女性、若者たちの無作法ぶりを取り上げている。

語り口は泥臭くて、お世辞にもスマートとは言えない。酒が好きで飲み過ぎると誰彼となく議論し、いくつかの武勇伝もあると聞いている。だが、記者会見などでは本質を突く質問をして、会見者の姿勢を糾した。それでも、終了すればいつもの笑顔で相手と話し合っていたから、彼を愛する隠れファンは多かったのではないか。

事務局の調べによると、山田さんの入会は1988年で、2003~06年に幹事、07~08、09~10年に代表代理を務めた。労ペンでさらに活躍すると期待されていた矢先の08年秋、リーマンショックが起きた。そして彼が編集長を務めた「新労働通信」は廃刊となった。新聞記者にとって、取材と発信の根拠を失うことほど辛いことはない。

最後に会ったのは、2019年春の自動車総連での春闘ヒアリング。一言交わしたが、その時「(病気は)肝臓、だからな」と、元気なくつぶやいていた。今年3月の連合会長会見では、姿を見ることはできなかった。

彼がいた労ペンは、活気があり多様性にあふれていた。小生の労ペンでの活動も、山田さんととともにあったように思う。合掌。 2023年4月25日記。

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