私の主張

日本の経済経営の価値観を新時代に向けて転換せよ!―日本経済の衰退と荒廃が広がる前に

2024/04/08

 
会員・村岡 利幸(労働総合コンサルタント事務所所長)

明治維新以降~リーマンショックあたりまでの、日本の経済経営の価値観が、一気に変化し、 たとえば「"共感・自由・快楽(幸せ)を文化の中に見出す"」といった、新時代向けに転換しない限り、日本や地域経済の未来は見出せず、さらなる衰退。荒廃が一気に広がるのは否めないと思っています。

自由市場経済の根底を支える、アダム・スミスの発見と発明

"労働という概念"は、経済学の父と言われるアダム・スミスによって、「その生産に用いた労働の質量によって捉える。」といった経済学的発見によって、人類が労働を効率的に扱えるようになった。それは、自由市場や資本主義といった制度の底流に不可欠な、"交換体系"という表象空間の内部の決して表面からは見えない商品の基底(もとぞこ)である、使用価値や需要その他に基礎付けられない""絶対的計算単位"というわけだ。この、一見抽象的と思われる、"質または量"で計測できる労働だ。

このアダム・スミスの発見と発明によって、それまでの封建的な経済外的強制や略奪による経済構造にあっても、"人々の価値観"の変化の基盤を作った。

  • (ア)資本を、自由に大量に投資する有効性(自由市場経済)、
  • (イ)物資その他を"商品形態"で自由流通(交通)させる方式、
  • (ウ)衣食住に関わる物資の"再生産"と、消費財のコントロール、
  • (エ)人間の"労働力計画=(子供を産み育てる)再生産"、
  • (オ)産業や社会機能整備のための"インフラ再生産"へと導かれる訳だ。
  • (カ)併せて貨幣(通貨ではない)が、農民・市民・労働者の、"細やかで束の間の自由"を手に入れる道具手段となり、"生きる意欲"をわきたたせる基盤となり、一気に価値観の変化へと至ったわけだ。

それまでは、商品価値は"食物を中心として全商品を含めて、

  • a.の表面とか、その商品が占める立ち位置よって、極めて曖昧な幻想原理的めいた物々交換に基づき(現在も続く=1個が数千万円もする宝石ダイヤモンドの取引のごとく)、その交換自体が需要に基づいて生じると幻想的に考えられていた。
  • b.なお、古代や中世にあって横行していたのが、商品交換ではなくて、武力や王権等による略奪や窃盗である。自由・平等・同胞愛のための社会の制度形成(フランス市民革命など)の中で、窃盗とは他人の所有物ではなく、他人の"占有物"を盗み取ることだと法律で定められ、併せて経営者の団結権(株式会社や有限会社)も法定され認められるに至った。
  • c.同年代日本での馴染みある、"お話"にあるところの、江戸時代:元禄期の商人=紀伊国屋文左衛門の儲け話といった類なのだ。
  • d.現代からすれば、希少価値とか季節物その他=捏造・騙し混在の類(現在でも極めて小さい市場規模業界で通用)であった。ちなみに、日本国内の中小零細企業は、未だこの程度の商取引価値観に留まっているようだ。
  • e.また、スーパーマーケットの業界は、その産業成り立ちの経緯からしても、大手中小問わず、地域経済政治(大店法に併せて商圏の確定、野菜など採算品の取り扱い義務など)と共に存立する、"物資配給事業"の事業域に留まってしているとしか考えられない、全く以って"岸信介らが導入したソ連計画経済"の名残としか受け止められない。

現代の"貨幣(通貨ではない)経済活動分野"は①労働価値生産 ②投機 ③賭博 の3つだ
繰り返すがアダム・スミスの時代とは、食物が重要な最も基礎的な対象であり、食物を中心として全商品を含む、"交換(商取引に至らず)"を目の前にして、アダム・スミスは冒頭の、「その生産に用いた労働の質量によって捉える。」と経済学的発見を成した訳だ。時は、重商主義と重農主義の、王国経済政策の大論争だ。

  1. それに比べ現代では、芸術やArt域労働が含まれた"固有文化価値商品"が流通している。固有文化価値商品とは、「マニュアルや企画書に基づく労働の"スキルSkill"とか」、「複雑重複した労働の"パフォーマンスPerformance"とは」次元は異なる。
  2. その"固有文化価値商品"なるものは、個々の人物が相互に表現し、相互に受け止める"共感Empathy"を盛り込んだ、物やサービスの表象空間の内部が決して表面からは見えない使用価値や、その需要その他に基礎付けられている商品なのだ。
  3. 共感といった概念は、その道の専門家の研究によると、アダム・スミスも、それを持っていたことを、アダム・スミスの記録から読み取ったとしている。"Empathy"という概念の語句は、1904年に造語され、この時点で同情Sympathyとか"同調"との区分が明確にされた。筆者の私が思うに、日本の"世阿弥"も、「能=胡蝶の舞」とか「離見の見」の教えからすると、共感の概念を感じ取っていたようだ。"共感Empathy"とのことで、科学的に解明され→概念の型や習慣にと形成されることによって、芸術作品は浮かび立ち、耽美・審美との分離も明確になった。
  4. この"共感Empathy"を盛り込んだことにより、"芸術には不可欠な希望や意欲を湧き立たせる"Art域の労働が意識的に、("単なる手作り"とか"写実")とは異なり、組み込まれ増幅されたりする。
  5. 自由市場経済を基盤にした商品が自由流通する以前の、殊に"自由・平等・同胞愛"のための社会の基盤形成(文明Civilization)が、充実していない時代、またはその基盤が崩壊してしまった状況(全体主義とかカルトやセクト集団の存在)にあっては、"固有文化価値商品"は、ナチスのように独裁者の意向には沿わないとして、"退廃"と決め付けられ、弾圧されるかゴミ扱いされる訳だ。その場合、「耽美物・審美物」が、"芸術だ!!"と言い変えられ→おだてられ→言い包(くる)められ、→"権威披露や同調誘引・販売促進"などに用いられているに過ぎないのだ。
  6. よって、その場合の労働能力全般は"骨抜きにされ"、賃労働とか請負代金といった、名称の如何を問わず"買い叩かれる"。ばかりか「芸術家は金銭価値のない代物だ。」へと、"囲いこまれ納得せざるを得ない風習"に、芸術家はハメ込まれてしまうわけだ。労働能力全般ではなく無視され、労働力の煩わしさのみで、"報酬は高くなる"との労働力法則のみで以て、不正不当な経済効果にさらされているに過ぎないのだ、Art域労働・芸術家は頑張ろう。

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