2025/05/07
会員・小野 豊和(元東海大学教授)
(NPO現代の理論・社会フォーラム経済分析研究会メールマガジン第355号 = 2025年4月16日号より転載)
昭和6年の満州事変の後、メディアを通じた日本軍の奮戦と勝利を賞賛する報道により軍国主義の風潮が高まる一方でキリスト教教育への攻撃が顕在化する。昭和7年5月5日に「上智大学靖国神社参拝拒否事件」が起こった。配属将校が学生たちを引率して満州事変の「英霊」たちを祀って間もない靖国神社を訪れた際、数人のカトリック信者の学生たちが参加しなかったことに端を発する。10月になって新聞による上智大学攻撃が始まり、12月に配属将校が引き上げた。当時、配属将校の存在が大学の社会的地位保護に欠かせなかったため、配属将校の引き上げ報道を知ると多数の学生が退学、入学希望者の激減により大学運営の危機となった。この問題の重大性に鑑み靖国神社参拝を受け入れることで、翌昭和8年12月に配属将校が上智大学に戻り、事件は終結した。
事件の背景には、教会(カトリック及びプロテスタント)と日本政府の神社参拝を巡る対立があった。日本政府は「神社は宗教ではない。国民道徳育成の要」と位置付け、日本人であれば誰でも神社を参拝し、教育現場においても児童・生徒の神社参拝が通例となっていた。一方、カトリック教会は「神社は宗教である」との解釈から、十戒の第一条「我は主なり、我を唯一の天主として礼拝すべし」を守ることから神社参拝を禁止していた。
しかし、上智大学事件後、神社参拝における「敬礼」について文部省と協議し「神社参拝は愛国的意義で宗教的意味はない」という回答を引き出し「学生生徒児童の神社参拝」容認に転換した。さらに「神社は宗教ではない」と明言する日本政府が行政上他の宗教と異なる扱いしていることから昭和11年5月、バチカンの布教聖省(現・福音宣教省)は「祖国に対する信者の務め」という指針を出した。この指針は「神社参拝は愛国心を表現する単なる社会的意味しかない」とし、信者たちに神社参拝を許した。これにより教会およびミッションスクールにとって靖国神社だけでなく日本全国の神社参拝についての問題は解決した。
熊本でもミッションスクールに対する国家干渉
熊本では、戦時下に於いてキリスト教教育を建学の精神とするプロテスタントを含めたミッションスクールに対する国家干渉を避けられなくなり、校名変更や校長更迭の動きが出てきた。九州学院(明治44年設立)、九州女学院(昭和元年設立)は昭和18年4月の新学期から昭和20年8月の敗戦までの期間、九州学院は九州中学校、九州女学院は清水高等女学院(現九州ルーテル学院)へと校名を変更せざるを得なかった。明治32年、英国及び他の列国との条約改正により、外国人が日本で学校を開設する事例が考慮され、その監督の必要性から文部省が私立学校令を制定し、同時に「一般の教育をして宗教の外に特立せしむは学政上再必要とす」という我が国の宗教教育史上有名な文部省訓令第12号を公布した。教育宗教分離に関する基本方針を明確にし、これによって官公立学校では一切の宗教教育は禁止され、私立学校で宗教教育を実施し得るのは便宜上各種学校扱いとされていた。
ただ両学院とも上級学校進学に関して公立中学校、高等女学校と同一扱いを受けていた。両学院は建学の精神にキリスト教主義を唱っていたが、戦争中は建学の精神に矛盾する国家干渉を避けることはできなかった。例えば昭和8年10月に「教育勅語」謄本が公布されると、九州学院は「教育への締め付け干渉を感ずる稲富(院長)が今後のキリスト教主義教育への不安を強く感ずるのはこの時である」(『九州学院70年史』)といい、九州女学院は、創立当初の入学案内に「基督教の主義に基き女子に須要なる高等普通教育を施し堅実善良なる婦人を要請するを目的とす」としていたが、昭和2年のそれには「教育勅語の本旨を遵法し基督教の主義に基き...」(『九州女学院の50年』)と記し、天皇制教育のキリスト教学校に対する教育内容への介入は公然たるものであった。
涙を飲んで「中等学校令」の適用を選択
ガダルカナル島での日本軍撤退、アッツ島守備隊全滅など、日本軍の戦局が悪化すると、昭和18年1月、政府は勅令36号「中等学校令」を公布した。「国民学校の教育を基礎とし、更に之を進展拡充し、教育の本義に則り皇国の道を修めしめ、各其の分を尽くして皇運を補翼し奉るべき中堅有為の国民錬成を完う」すべく制定されたものであると定義し、それまでの中学校令、高等女学校令、実業学校令を統合し一本化した。同時に「皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を以て目的とす」という国民学校教育目的を中等教育にも延長運用し、中等教育段階での法的統一を図る目的で制定されたのが「中等学校令」であった。キリスト教主義学校として各種学校の適用を受けた両学院であったが、各種学校のままでいけば学校存在の不安定性が持続されるし、「中等学校令」の適用を受ければミッションスクールとしての機能を希薄にせざるを得ない状況にあったが、ここにおいて両学院とも「中等学校令」の適用を選択した。「名を捨てて実を残さざるを得なかった」と言うべきかもしれない。
明治33年にメール・ボルジアが熊本摩瑰女学校を創立。大正9年に熊本中央実科高等女学校を設立、大正11年には上林高等女学校と改称、昭和7年には上林女子商業学校を開校するがキリスト教教育の危機に瀕した。昭和9年1月5日、上林高等女学校・女子商業学校の父兄有志が臨時に会合を開き「1.アンデレア校長は我国民教育の基本を破壊するものと認む、我等は誓って同校長を排除す。2.我校現下の教育は前柴田校長代理の手腕に持つもの洵に多し、速やかに再び迎えて父兄の不安を除かんことを期す。3.右の希望を達するまで断然生徒の昇校を見合わす」という決議文を学校に提出した。これに対し学校側は1月7日に「アンデレア校長は国民教育の精神に反するが如き行為ありたることなく、教育勅語精神に則り、国民精神の作興に努め、例えば神社参拝の如きは本校は率先して之を行い、父兄会の決議の如き事実断じてなし」「校長代理の再任はすでに後任人事が決定しているので覆ることは絶対ない」との声明書を発表し反論した。同窓会も「母校の教育方針の正しさを信じて居るが故に母校を非難するが如き行動に出でたることなきを声明す」と学校側に同調した。
1月8日は新学期始業式であったが登校学生が減少、1月9日には父兄側がアンデレア校長の排斥、前校長の復帰、カトリック教に基づく教育方針の改革を叫び対立が続いた。ところが同日遅くなって熊本市内の私立高等女学校(大江、尚絅、中央)の校長が事態収拾を表明、1月10日に三校長が父兄側代表と折衝し妥協案が成立した。「紛争突発以来不安の空気に包まれた学園も愈々博愛の魂が甦って平和の日が訪れそうである」(『九州新聞』昭和9年1月11日)と新聞が報じた。苦難の道を歩んだが、昭和22年の学制改革により熊本信愛女学院と改称、新制中学校が発足した。
【参考文献】『近代熊本における国家と教育』(上河一之、熊本出版文化会館、2016)『カトリック新聞』(2025年2月16日)