私の主張

連合結成30周年に向けて 山岸章とその時代

2019/12/02

 
労働ジャーナリスト・鳥居 徹夫会員
労働運動の話(「労政フォーラム」2019年3月号から)

自由にして民主的な労働運動を推進、階級闘争主義と対決

第2次世界大戦後、労働諸団体は離合集散を繰り返しながら、1989(平成元)年に、連合(日本労働組合総連合会)に結集しました。

連合の綱領・基本目標の主な内容は、①自由にして民主的な労働運動の伝統を継承、②社会正義の追求、③労働組合の主体性の堅持につとめ、外部のあらゆる支配介入を排除、④労働諸条件の維持向上、⑤活力ある福祉社会の実現、⑥労使対等の原則に立ち、相互の自主性を尊重した労使関係の確立、などです。
言うまでもなく、労働組合は、勤労者が主体となった組織体です。政治闘争のための組織体ではありませんし、ましてや革命運動や反体制運動の推進体ではありません。

日本で最初の労働組合である「友愛会」は、1912(大正元)年8月1日に鈴木文治らによって設立され、戦前の労働組合運動の本流となりました。
戦後、友愛会の流れを組む総同盟(後に全労会議、同盟となる)は、自由にして民主的な労働運動、労働組合主義の理念に基づいた活動を展開しました。
その障害となったのが左翼労働運動です。労働運動を共産主義運動、反体制運動の道具にしようとし、政治的な 『労働者vs資本家』というマルクスの階級闘争主義を持ち込んだのでした。
2012(平成24)年は、友愛会(日本で初めての労働組合)創立100周年でした。そしてその記念事業として、新友愛会館が建設され、友愛労働記念館もオープンしました。

政官業の癒着を打破、政治改革に尽力した山岸章

2016(平成28)年4月10日、労働戦線統一に尽力され、連合の初代会長でもあった山岸章がご逝去され、同年7月19日に、都内で「山岸章さんお別れの会」がしめやかに行われました。
言うまでもなく山岸章(1929~2016年)は、初代連合会長であり、労働組合への共産党の介入をはねつけ、共産系の労働組合を排除して、自由にして民主的な労働運動の組織体である連合結成に多大な貢献をされました。

山岸章は、労働運動の華やかなりし20世紀の指導者でした。また非自民反共産の細川護(もり)煕(ひろ)連立政権の誕生に尽力し、『平成の闇将軍』との異名をもありましたが、山岸章の真骨頂は、徹底して共産党の影響力を排除した労働運動を進めたことです。
労働戦線統一とは、労働運動から共産主義革命政党としての共産党の影響力を排除することであり、これこそが連合結成の原点でした。
旧聞になりますが、1964(昭和39)年の「4・17春闘ストライキ」では、総評のスト方針(総評を構成する労働組合の民主的な手続きを経て決定した)に対し、共産党は突如スト反対を表明し、職場の共産党員はその指令に基づき妨害行動(スト破り)を行いました。

共産党のスト反対の理由は「経済的要求しかなく、政治的要求やアメリカ帝国主義反対がスト方針に入っていない」「過激派・極左勢力が挑発行為に出て、それを理由に権力から弾圧される」というものでした。
これはまさに、労働者大衆を指導する前衛党=日本共産党の独善的な思い上がりであり、労働組合への介入、労働運動の破壊工作そのものでした。
労働運動に共産主義運動や反体制運動を持ち込み、革命思想や党派性がむき出しにされたのです。

そのとき山岸章は、全電通(現NTT労組)大阪電信支部の書記長でした。全電通は、組合の指示に従わず、党員として共産党の指示に従いストライキを妨害した組合員を、徹底的に(組合除名など)処分を断行したのです。
これは、総評から共産党勢力を切り離すことで、労働4団体に分裂していた労働者の大同団結への道を開き、その後の連合結成と繋がっていくのです。

勤労者軽視の政治からの転換

山岸章は、日本経済を支えてきたサラリーマン(給与所得者)が、当時9・6・4(クロヨン)と呼ばれていた不公平な税制下にあった税構造の改革、行政改革の推進、(当時の)狂乱インフレ抑制など、勤労者の生活課題の解決、つまり政策制度課題の改善に向けた運動の先頭に立ちました。 山岸章は、利権をむさぼる政官業の癒着を打破し、サラリーマンのための政治改革の必要性を強調し、当時の自民党に代わる政治勢力の結集にも尽力しました。 日本政治の一大トピックとなった1993(平成5)年、宮沢喜一内閣の不信任案が衆議院本会議で可決され総選挙となりました。その投開票日は同年7月18日、山岸章64歳の誕生日。
総選挙の結果、自民党は野党に転落し、細川護煕(もりひろ)政権が誕生しました。
共産勢力を排除した7党1会派(社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社民連、および民主改革連合)による非自民連立政権は、「細川ガラス(ガラシア?)細工内閣」と皮肉られましたが、戦後政治史の転換点となりました。

その細川政権は、勤労者に一方的に犠牲を強いる不公平な税負担の軽減と、バブル崩壊後の景気対策として、所得税減税5・5兆円を含む6兆円の減税を実現させたのです。
この非自民政権は7ヵ月という短命に終わりましたが、それ以降は自民党政権がいかに多数を占めようとも、勤労者を無視した政策は実施できなかったことをみても特筆に値します。
それどころか山岸章は、細川首相が突如として打ち出した7%の国民福祉税構想(当時の消費税は3%)に猛抵抗し、断念させました。

これは新生党(当時)の小沢一郎や、当時の大蔵事務次官であった斉藤次郎が細川護煕首相をハイジャックし、政権トップの細川首相の言うことを聞けと言わんばかりの理不尽なものでした。
この国民福祉税構想は、政権与党内はもとより、支持団体の連合などにも、説明も論議もされていなかったものであり、細川政権の崩壊の大きな要因にもなりました。
後の民主党政権でも、消費税率引き上げによる「社会保障と税の一体改革」で、財務省に乗せられた民主党が、国民に一方的な犠牲と景気低迷を招いたこととは、大違いでした。
山岸章は、3年3カ月の民主党政権を「理想論ばかりで政権担当能力がなかった。国民に失望を与えた失政の連続だった。あんな政権だったら政権をとらない方がよかった」と辛辣に総括しました (ニッポンの分岐点―連合その3 産経新聞 2014・2・22)。

細川政権の実現に奔走した山岸章と小池百合子

2016(平成28)年7月31日は、東京都知事選挙日の投開票日でした。
結果は、小池百合子が291万票、自民・公明推薦の増田寛也が173万票で、100万票以上の大差で圧勝しました。一方、民進党・共産党・社民党・生活の党が推薦する野党共闘の鳥越俊太郎は135万票に過ぎず惨敗となりました。

鳥越俊太郎は、都知事選でも「権力は腐敗する」と強く主張しましたが、鳥越自身がジャーナリスト界のドンであり、まさに腐敗とオゴリの極にありました。
鳥越候補は、待機児童問題の解決策などの具体的提起もなく、都知事選とは無関係の国政がらみの「反アベ!」を絶叫しただけでした。さらには週刊誌によって自らの女性スキャンダルが暴露されましたが、説明責任すら果たさず、「聞く耳」を持ちませんでした。
その結果、労働団体「連合」は、共産党も含めた野党共闘候補の鳥越俊太郎に距離を置き、自主投票としました。

東京都民が小池百合子候補に期待したのは、都庁ボスと都議会ボスによるブラックボックスの徹底究明と 透明化でした。自民党東京都連の権威主義と、都議会 自民党の旧態依然たる体質、そして東京都庁公費天国 、役人天国に大ナタを奮うことであり、それがそのまま選挙結果となりました。
かつて小池百合子は、ゼロから細川護煕らと日本新党を立ち上げ、リクルート汚職事件などで腐敗していた自民党単独政権に終止符を打ちました。
昨年2017(平成29)年の中央メーデー(連合主催)には、小池百合子が挨拶し、東京都知事として連合組合員に連帯のエールをおくりました。
かつて細川政権の実現のため奔走したのが、ありし日の山岸章であり、また小池百合子でありました。 (敬称略)

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