私の主張

労働遺産と産業遺産を考える。

2020/12/28

 
会員 鳥居徹夫 (労働問題研究者)

日本労働ペンクラブは、2021年度活動方針に「労働遺産認定」を提起する。
一方、産業遺産においては、2015年にユネスコは、「明治日本の産業革命遺産(明治産業遺産)」を世界文化遺産に認定した。
文部科学省・文化庁は、労働とか産業に関わる文化そのものに否定的で関心がない。
この明治産業遺産は、民主党政権で労働組合出身の各大臣の奮闘で、内閣官房でユネスコへの申請・推薦作業が閣議決定された。文部科学省・文化庁はお呼びでなかった。
実は、この案件に私(鳥居)も関わっていた。以下がその経過である。

※明治産業遺産「お友達案件ではない」(2018.01.22産経)

終戦間際の軍艦島は昭和であって明治日本ではない

明治産業遺産は、8県11市23資産で広域にわたり、また現役で稼働しているものもある。
釜石の橋野鉄鋼山・高炉跡、静岡の韮山反射炉、鹿児島市の寺山炭窯跡や旧集成館、長崎の造船所、福岡の八幡製鐵所、三池港、三池炭鉱、さらには軍艦島(長崎市の端島炭坑)などである。
この明治産業遺産の世界遺産登録に、韓国は猛反発した。そして第2次大戦時の日本の戦時徴用を問題視した。
そこで日本政府(外務省)は、ユネスコの場で「厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいたこと、また、第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる」ことを約束した。

今年2020年に公開された「産業遺産情報センター」には、昭和19~20(1944~45)年の戦時の軍艦島(長崎市の端島)の展示コーナーがある。
言うまでもなく、終戦間際の軍艦島は昭和であって、世界遺産が対象とする明治日本ではない。

戦時中に国民徴用令によって朝鮮半島出身者が徴用されたのは、終戦直前の昭和19(1944)年9月以降から終戦の翌年8月まで。それ以前にも朝鮮半島出身者が出稼ぎで渡航していたが、それは待遇が良かったからである。
当時の炭鉱は、職場環境が過酷であったが、韓国が言うような強制労働ではなかった。
「産業遺産情報センター」は、元島民の証言や端島小学校の同窓会名簿、当時の給与明細、給与袋など一次資料が収集されている。
現地で働いた経験のある人たち、父親が在日二世という元島民、その家族らからは、「強制労働なんてなかったよ」「みんな和気あいあいと暮らしていた」という証言であった。
端島の小学校に通ったと自称した具然喆(グ・ヨンチョル)は、「軍艦島=地獄島」と世界に発信したが、彼の名前は端島小学校の同窓会名簿にはなかった。
国民徴用令は、賃金の支払いを伴う合法的な勤労動員にすぎず、朝鮮半島出身者も内地人も同じように働いていた。つまり朝鮮半島出身者の強制労働は存在しなかった。軍艦島では、朝鮮半島出身者も大事にされていたというのが歴史の真実である。

まずは多くの一次資料を

日韓併合の明治43(1910)年以降、朝鮮半島の人々は日本国民であった。日韓併合は、イングランドとスコットランドが条約により合併し、国名を「イングランド」と称したようなものであった、と私は認識する。
実際、台湾がそうであったように、武力による支配ではなかったし、流血の事態すらもなかった。つまり欧米諸国がアジア・アフリカに展開したような植民地(colonization)ではなかった。
今回、産業遺産において韓国の難癖をはねつけたのは、日本側が一次資料を収集したからである。
言われなき風評を跳ね返し、旧端島の島民、長崎1区の有権者はもとより、日本国民の名誉を守ることこそ、外務省、経済団体、労働団体の当然の役割であろう。


来年度にスタートする「労働遺産認定」においても、ともすれば散逸しがちな一次資料を大事にし、今日の「8時間労働」や「最低賃金」などに代表される功績を検証しアピールしていく重要な役割を見出すことを期待したい。

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