関西支部発

労ペン関西支部23年度第2回研修会・懇親会開催

2024/03/04

 
日本労働ペンクラブ関西支部
2023年度第2回研修会・懇親会 開催
(関西支部通信第41号=24年1月号から転載)

11月25日(日)午後2時から午後5時まで、JAM西日本会館6階ホールにおいて、「戦前の工場法に学ぶ」をテーマに、日本労働ペンクラブ関西支部第2回研修会を開催しました。講師は、著書『工場法小史』で2020年に労ペン賞を受賞された、元大阪中央労働基準監督署長で会員の横田隆氏にご講演頂きました。参加者は、関西支部13名、会員外11名の合計24名でした。
狩谷道生関西支部幹事の司会により開会。森田関西支部代表の開会挨拶では、会場提供頂いたJAM大阪の方々をはじめ会員外の参加者が半数を占めることもあり、日本労働ペンクラブの紹介や労働遺産認定事業 についての説明がありました。


講師の横田氏は、2019(令和元)年10月20日に開催した関西支部研修会でもご講演頂き、今回は2度目となります。前回以降の新たな研究成果も踏まえて、より興味深い内容のご講演を頂き、新たな気付きを得られた大変有意義な研修会となりました。講演後の質疑応答では、沢山の質問に一つ一つ丁寧にお答え頂きました。
研修会終了後は、会場を移し、目利きの銀次肥後橋駅前店で懇親会を開催し、会員9名が参加しました。

講演要旨

1.工場法施行以前の工場取締

工場法は、1911(明治44)年に制定、1916(大正5)年9月1日に施行された。提案と廃案を繰り返し制定に至るまで30年の歳月を要した。

1868年明治維新、工業の勃興とともに、公害・ケガ(労災)の発生の取り締まりが必要となり、各地で規則が作られていった。明治10年大阪府三業(鋼折鍛冶湯屋)取締規則が、最先の取締規則といわれる。

この時期、西南戦争(明治10年2月~9月)がおこり、大阪砲兵工廠は、昼夜、兵器の製造繁劇を極めた。明治19年長野県蒸気汽罐取締規則、明治23年兵庫県、大阪府黄燐摺附木製造取締規則(労働衛生規則の始まり)、明治29年大阪府製造場取締規則(本格的な工場取締の始まり)等が布達された。そして、災害事故を把握するため中央政府主導により、明治32年内務省訓令、明治33年農商務省訓令が布達され、災害事故報告の提出が求められるようになる(国立国会図書館のデジタル資料から当時の「工場衛生及び災害統計」を確認できる)。

明治27年日清戦争から明治37年日露戦争までは、日本における産業革命の進行と重なり、この時期におびただしい数の府県規則が出ている。これらすべてが工場法の傘下に収められることになった。

明治17年大阪紡績で深夜業が開始され、24時間操業を工場法施行後も15年間認めたことが、工場法はザル法と批判される所以である。

明治12年の銀行券には工業の象徴としての工場内が描かれていること、明治3年設立の堺紡績所の工場内の蒸気汽罐(ボイラー)について、また、大阪市三軒家公園の近代紡績工業発祥の地碑等についても説明された。

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20240304c.png 講師の横田隆氏

2.工場法の制定、施行へ

正史として、商工政策史(工業に伴う弊害の防止)、内務省史(労働者保護)、厚生省二十年史(労働問題の発生、労働運動の発展への対策)、厚生省五十年史(日露戦争後の争議増大、労使関係の不安定、世論)、労働行政史(労働者保護、保護の対象は生産要素たる労働力-戦時要請-保護対象は人ではなかった)等、講師の蔵書から説明された。
明治43年「工場法制定に関する件」の中の農商務大臣・内務大臣の連名による工場法案・理由書には、「①婦女幼少の労働を節制し、②其の他工業に伴う危害を防止する等をなし、これによって工業の発達を永遠に確保する制度を立てるためである」としている。

3.工場法の施行

工場法は明治44年3月28日公布され、大正5年9月1日施行された。法案は15歳未満の者と女子の深夜業(午後10時~午前4時)禁止とされていたが、出来上がった法律は、交替制勤務の場合は深夜業可、禁止は15年の猶予となったため、ザル法のラベルが貼られることになる。施行当時の評判を、友愛会(大正元年8月設立)の機関誌『労働及産業』から引用すると以下の通りである。

  • 鈴木文治友愛会会長「骨抜き、肉もそがれ、一片の皮膚によりて工場法の名目を有す」
  • 岡實商工省商工局長「三十年もかかって朝野の知恵を搾ってこしらえた法律」
  • 桑田熊蔵貴族院議員(会誌で工場法の父と言われた)「ローマは1日にしてならず」等

4.工場法の展開

工場法の適用対象が職工15人以上に対し、工場法施行後も大阪府工場取締規則は、職工5人以上を使用するものと法を上回る規則を定めていた。江戸時代のなごりといえるが、国家統制が進んで、昭和7年の改正で削除されている。

  1. 児童労働の排除
    大正7年に出された第1回工場監督年報から、大正5年末の適用工場の職工数1,078,861人、男女比では女工数が50万人を超えている。10歳~12歳未満の児童は10,914人いた。工場法は、適用工場において12歳未満の就業を禁止した。大正12年3月29日に公布された、工業労働者最低年齢法(14歳未満の使用禁止)が、昭和3年7月1日施行され、その後2年経過後には学齢児童問題は消滅すると「大正15年工場監督年報」に明言されたが、商店等同法の適用対象でない業種もあり、児童労働がこの時点で解消されたとはいえない。とはいえ、安定した職業に就くためには小学校卒業は必須条件であることが人々に理解され、小学校就業率は向上し、小学校卒業率は年ごとに改善されていった。
  2. 八時間労働の発祥
    1919(大正8)年、川崎造船所が8時間労働制を実施(前年ベルサイユ講和条約、1919年ILO設立、1921年三菱川崎争議)。【1993(平成5)年神戸港ハーバーランドに八時間労働発祥の地碑建立】大正13年11月の労政時報によると、大正12年末時点の東京の工場の就業時間(拘束時間)は65%が9時間までであった。割増賃金の規定は法律にはなかった。
  3. 深夜業禁止
    大正12年3月30日に改正法公布、昭和4年7月1日に深夜業禁止が施行された。明治17年の深夜業開始から45年が経過していた。深夜業禁止の施行により、女工167,828人が深夜業から解放されたと行政史はいう。(大正14年『女工哀史』初版発行、『わたしの女工哀史』にも言及)
  4. 健康保険制度
    工場法の扶助の実行(労災補償)には、技系・医系の工場監督官が配置された(全工場監督官の47%、小史より)。大正5年工場法施行令の扶助規定から、大正11年4月22日健康保険法(業務上外不問)公布、昭和2年1月給付開始される。健康保険法は工場法の姉妹法であると当時いわれた。
    昭和6年、屋外労働者を対象として、労働者災害扶助法同責任保険法ができ、昭和7年施行された。これを根拠にして、危害予防及衛生規則となり、労働安全衛生規則のはじまりである。続いて土石採取場安全及衛生規則、土木建築場安全及衛生規則、これが戦後の労基法、労災保険法となっていく。
    公害防止については、昭和18年警視庁工場公害及び災害取締規則ができ、戦後、公害防止は工場法から離れて公害防止条例として変わっていった。
  5. 工場寄宿舎給食の改善
    寄宿舎給食は、日本の農家の食事に準ずる形(一汁一菜)が導入された。結核対策として①深夜業禁止、②給食の改善、③寄宿舎改善、④病気の早期発見・療養が共通認識とされた。
    佐伯矩博士が中心となり栄養の改善を唱え、大正3年に佐伯栄養研究所を設立、大正13年に佐伯栄養学校が創立された。卒業生が栄養技手として府県工場課等の職員に採用され、全国に広がっていった。佐伯博士の出身地愛媛県工場課で昭和3年採用された2期生橋爪氏が特に活躍した。昭和7年日本産業衛生協会設立され、昭和12年労働科学研究所も栄養問題について様々な取り組みをしている。昭和7年大阪府工場課「工場食の栄養調査」報告、昭和12年社会局「本邦工場栄養食の概況」を出し、昭和13年労働局「工場食の改善と工場栄養食共同炊事場」を刊行した。同年栄養食配給所を全国69、終戦時には200~300となった。栄養食配給所は関東に多く、関西は総菜屋が中心となっていたようだ。
    昭和18年大阪産業報国会の「工場給食施設」(東洋書館)に、戦時中、工場監督官をしながら大阪産業報国会保健部長も兼ねていた丸山博氏の名前がある。戦後は大阪労働基準局労働衛生課長をされた。昭和19年には大阪産業報国会「工場寄宿舎規則」(東洋書館)が出ている。工場法は工場寄宿舎給食の改善にも関与していた。
  6. 工場危害予防及衛生規則
    昭和4年6月20日工場危害予防及衛生規則ができて、同年9月1日施行された。これが、昭和22年労働安全衛生規則となっている。具体例は、第26条が第173条となった。
    昭和7年11月第1回全国産業安全大会が開かれた。昭和11年10月第5回全国産業安全大会では、起重機災害の統計的研究が武田晴爾氏(労働基準局初代安全課長)により報告されている。危害予防規則第2条が労働安全衛生規則第76条となった。
  7. 商店法施行
    昭和13年10月1日、商店は午後10時閉店を規定した商店法が施行された。
  8. 労働保護法へ
    昭和11年、内務省木村清司氏による「労働保護法」という本が出版されている。単独の労働者保護法への動きが既に出てきていた。
  9. 太平洋戦争-産業戦士の時代-
    昭和13年1月11日厚生省が設置され、4月1日、国家総動員法が施行される。同日、職業安定所が国営となり、16年3月1日国民勤労動員署に改称される。
  10. 産業報国運動
    友愛労働歴史館のリーフレットを見ると、昭和16年から20年まで空白となっている。その間は、産業報国運動の期間である。戦時中、工場課は労政課、工場監督官は労務監督官に改称され、産業報国運動の旗振りをするようになる。
    大日本産業報国会は、昭和15年11月23日創立、終戦後の残務整理のため昭和20年9月30日まで続いた。戦時中、労働科学研究所は産業報国会の一部となったが、昭和20年11月傘下から独立した。国立国会図書館(NDL)で検索すると産業報国会について、色々知ることができる。来年1月にはNDLの検索が大幅に改良されることを聞いている。
    東京警視庁工場課には工場協会があり(昭和7年1月から「月刊工場時報」を刊行)、昭和9年には労使懇談会を開催、この工場協会が産業報国会に衣替えしたとみられる。NDL「昭和18年度東京産業報国会運動概要」資料「機構要図」から、各警察署単位の地域支部があったことがわかる。
    昭和18年6月16日工場法戦時特例、昭和19年1月18日軍需会社指定、主要な工場が軍需会社となる。軍需省が労務管理も担当することになり、行政史によると労務行政が二元化され、労働保護行政は失われたといわれている。しかし、工場法による危害防止規則等は既に現場に浸透していたといえる。

5.労働基準法の誕生と工場法の廃止

昭和22年4月7日労働基準法が公布され、工場法は廃止される。
労働組合についてみると、昭和21年19,169組合5,546,697人、産業報国会の会員数540万人と似合った数であり、産業報国会が戦後の企業別労働組合へと移行したとの説が有力である。(藤木美能里支部代表代理・記)


第2回研修会に参加して

関西支部会員 阪本誠一
(関西支部通信第41号=24年1月号から転載)

令和5年11月25日(土)の関西支部研修会に参加しました。研修テーマは「戦前の工場法に学ぶ」で講師は、元大阪中央労働基準監督署長で労働ペンクラブ会員の横田隆さんでした。横田隆さんの講演を拝聴するのは2回目だったのですが、講師の著作の『工場法小史』を拝読する機会を逸していました。

今回の研修会が『工場法小史』を基に講演されると知りましたので、研修前に『工場法小史』について今流行りのAIに質問しました。『工場法小史』「もっと詳しく」と質問したところAIからの回答は次のとおりでした。

『工場法小史』は、日本の工場法の歴史をたどり、同法の再評価を試みた本です。この本は、工場法成立前の府県規則から同法成立、労働基準法施行による廃止までの歴史をたどり、同法の展開を、冷静な筆致で叙述した通史となっています。工場法は、労働者の権利として合理的な労働条件を保障するものではなく、「慈悲の規則」「労働力保護の例外的規則」であったと評される。工場法制定にあたっても、「産業の発達」と「国防」という面が強調されており、今日の労働法のような「労働者の保護」を目指した法というより、人的資源としての「労働力の保護」という思想の下に制定されたものであった。」

果たしてAIの回答が概略として正しいのか楽しみにしながら当日の研修会を受講しました。

研修会では、講師の著書『工場法小史』を基に工業の勃興と取り締まりを歴史に沿ってご説明され、工場法の展開を俯瞰した詳細な資料もご提供いただきました。工場法制定前から労基法制定までの流れを知ることができるよい機会になりました。歴史を知ることで得ることがたくさんあると思います。また、AIも侮れないと実感できる機会になりました。

工場法から見る時代背景

関西支部会員 小野山真由美(支部幹事)
(関西支部通信第41号=24年1月号から転載)

前回の横田先生の講義では工場法に労災や健康保険の前身となる視点、公害防止の視点がすでに講じられていたというのが印象的でした。今回の講義を最も待ち望んでいた一人です。

明治から大正にかけて日本が大きく様変わりする中での産業とそれを規制する工場法。私は、歴史が好きで明治、大正というと現実味を伴わない絵巻物のような印象で捉えているところがありました。電気の普及と深夜勤務、紡織産業とボイラー、黄燐マッチの規制、どれも「災害事故」という尊い命の代償があり、健康を害することを規制しなければならないという役人の努力と英知があったこと。明治維新から工場法の施行まで、わずか約50年、平成元年から数えて今年は35年。この35年で大きく時代は変わったと我が身は感じていますが、おそらくこの50年の変化はそれ以上だったと思います。

講義の最後で、森田代表が、横田先生にされた質問が秀逸でした。「工場法では、職工15人以上を使用するものを規制対象としたのを大阪府工場取締規則では、職工5人以上を使用するものとしている、それはなぜか?」横田先生の回答は、廃藩置県が行われてはいるものの中央政府より藩の力が当時はまだ強かったからと。その回答は、私の脳裏で歴史が目の前に見えた瞬間でした。

一方、私は黄燐マッチが気になって、マッチの歴史を知りたく、住まいのある長岡京市の図書館、インターネットで探してみたものの全体像がまだつかめずにいます。魔法の着火具として登場した黄燐マッチ。その普及の速さ便利さに歯止めをかけなければならぬほど危険度が高かった黄燐。その規制と抵抗は、想像でしかないが相当なものだったに違いない。大きな時代の変化の中で施行された工場法は、今、何を考えなければならないかの大きなヒントと社労士よ!怠けるなと言われているような気になりました。

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