関西支部発

情報時代と日本の心

2023/02/27

 
多摩大学名誉教授 竹村之宏
関西支部通信第38号(23年1月)から転載

1.はじめに

大正11年に日本を訪れたアインシュタインは次の言葉を残した。「世界は幾度か争いが繰り返され、最後の戦いに敗れる時が来る。その時、人類は真の平和を求めて世界的盟主を挙げなければならない。それは、世界の文化はアジアに始まりアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。」

かつて日本は経済的には貧しかったが、世界の人々から一目も二目も置かれていた。それは何故か。高い教育レベル、高い技能、礼儀正しさ、思いやりの精神、そして何よりも一致団結して国を守ろうとする勇気と気概があった。

今日、日本は世界第三の経済大国であり、日本のお金は地球上の隅々まで行き渡り貧しい人々を救っている。しかし、どれだけ評価されているのか疑問である。私達は「自然の声は人間の声よりも尊い」と思う。そのため、日本人は言葉をもてあそぶことを嫌う。万葉集に「神ながら言上げせぬ」と詠われているのは、言葉の論理で自己主張することをよしとしない気持ちの表れではないだろうか。

日本人の自然崇拝から生まれたものの中で、最高のものの一つは「大和ことば」であろう。大和ことばは言葉の情報エネルギーを高めるために生まれたといってよい。それは、数少ない言葉の中に優美で細やかな自然の声や人々の心情を凝集する必要があったからである。日本で和歌や俳句といった短詩形が発達したのは大和ことばの発明によるところが大きい。わずか三十一字の文字に複雑な意味を込めることによって、高い情報エネルギーを発揮することが出来る。わが国が古来からさまざまな異文化を吸収しながら、それらに征服されることなく、独自の価値観で消化しえたのは、大和ことばのもつ情報量の大きさに負うところが大きいということができる。今こそ伝統的な悲観主義を排し、もっと自信を持つべきではないだろうか。

2.自然がつくる日本人の深層心理

南北に細長く横たわる日本列島は東北・北海道を中心に分布している豊かな林と、関東以南に広く分布している照葉樹林帯によって形成されている。この樹林帯は日本と日本人のあり方を決定づけた。それは一口で言えば「自然との共生観」である。縄文期の推定人口26万人の三分の二以上が分布した東北地方のブナ林帯は日本人のふるさとと言ってよい。

縄文人の自然観は弥生人にも受け継がれ、照葉樹林の下で発展した稲作が弥生人の文化をつくった。縄文人が森林の時間に歩調を合わせて共生したのに比べて、弥生人は農耕のサイクルに合わせて自然と共生した。こうして縄文人と弥生人は共に共通の固有の世界観を持つに至る。それは、宇宙の本質は混沌(カオス)と変化であるということである。西洋人から見ると日本人はものをはっきり言わないと非難されることが多い。それは、ものごとは根本的には明白に分けられないという認識があるからだ。自然は絶えず変化するので、同じ姿になることはないと考える。ものごとを有用なものに区分し、有用なものに方向を定めて進む西洋人とは違うのである。また、日本人は比較的大発明・大発見が少ないのは、森林の外にあまり関心を払わない、森林の思考法が根底にあるのかもしれない。

3.大和ことばの情報量

このように、ブナ林と照葉樹林が醸し出すおいしい空気と香り、そして四季を演出する天候の変化によって、日本人の感覚はより繊細なものになった。古事記に「草木ことごとにものを言へり」という一節がある。日本人にとって、草木から鳥や虫にいたるあるゆる自然が声を発し、それらが神の声となって耳に入る。日本人にとってコオロギの声は神の声であるが、西洋人にとっては雑音でしかない。

そのため、どんなに高い地位にあっても、自然崇拝の極意である歌を詠めない者は人格者として認められなかった。昔、貴族の間で行われた歌会の席には庶民でも歌をよく詠める者は参加を許された。歌の前には身分の差は存在しなかったのである。このため、日本人の自然崇拝は民主的な思想のはしりといってよいのではないか。

4.自然に恥じる気持ちは極めて人間的

次のような話は、日本人の自然に対する尊敬と恐れの心情をよく現している。ある月の晩、一人の男が子供を背負って歩いていた。男はスイカ畑を通りかかった時、スイカを盗もうとして思わずつぶやいた。「誰も見てないだろうな。」すると背中の子供が言った。「お月さまが見ているよ。」と。男は自分の気持ちを恥じる。

この話には二つの意味があるように思う。一つは、日本人の自然観である。自然に対して悪いことをするのは許されないという原精神が読み取れるのである。「お天道様に申し訳ない」という言葉も同じ精神であろう。もう一つは、世間体を思う心情である。弥生時代に発生をみた村落共同体での生活で一番大切なことは世間体であった。みんなと同じことをすることが良いことで、違うことをすることは許されなかった。

ルース・ベネディクトはその著『菊と刀』の中で、日本人は「恥」の文化だと言ったが、お月様の目や世間体を気にする気持ちは恥と同じ意味といって良いであろう。西洋人は絶対者である神の前で自分の罪を自覚するが、日本人はお月様の前で恥をかかねば良いという考えである、というのがベネディクトの意見である。しかし、ベネディクトの思想は西洋人の罪の文化の方が高等で、日本人の恥の文化は低級であるという思いが上がりに満ちており、日本人は恥の文化を少しも恥じる必要はない。日本人の恥の意識は極めて人間的である。お互いに恥ずかしくない行動を取ろうという精神は極めて大切である。

5.まとめⅠ-システムの落とし穴

日本人が自然の万物流転の法則に従って生きているのに比して、西洋人は自然を人間にとって都合の良いように支配してきた。自然を征服し服従させる手段として発展してきたのが科学であり、科学が生んだ工業社会をより効率的に運営するしくみとしてのシステムという管理法である。システムの典型が株式会社という組織である。産業革命によって生まれた会社というシステムは、人類を慢性的な欠乏から救った救世主であった。システムは会社以外にも拡充し、今日、私たちの社会はシステムなしには存立しえない。

しかし、システムは人々の個性を奪い非人間化させる働きを持っている。私達は今日、多くのシステムに囲まれて生活しているが、全てのシステムが自分に合致するとは限らない。

それはシステムが、人間が人間を管理する手段であり、全ての人に利するものではないからである。

6.まとめⅡ -情報時代に生きる日本の心

希望的側面と悲観的側面をもつ情報システムであるが、現代社会においてはシステムが否定できないものであるとすれば、求められるのは真に人間的なシステムの再構築である。そのためにはもう一度日本の心に帰ることである。なぜなら、日本人が極めて優れた感性と情報処理能力をもっているからである。自然を神とした日本人は権力や金銀よりも、労働そのものや技術、人間的な情報処理能力をもっているからである。情報時代の特性の一つは変化であるが、日本人の変化への対応が極めて高いことは既に立証されている。1995年の阪神・淡路大震災では世界が驚嘆するほど冷静に対応した。日本人にとって、変化やカオスは当たり前であり、人間が手を加えるべきではないと考える。

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