特集

関わってきたNGO活動を通じて戦争を考える

2024/07/08

 
幹事・澤田 和男(アジア連帯委員会会長)

昭和27年生まれの私は当然のことながら戦争を体験していない。戦争当時私の両親は満州にいたのだが、父はソ連軍の捕虜としてシベリア抑留後帰国した。母は他の日本人達と命からがら帰国したが、その帰路で二人の息子(私にとって兄二人)を栄養失調で亡くした。父は早死したので戦争やシベリア抑留時代の話をじっくり聞いた覚えはないが、母は満州から引き上げる際の悲惨さを時々語っていた記憶がある。このように戦後生まれの私であるが、労働組合の役員在任中および退任後に、戦争が一般国民に強いる厳しい状況を少しでも改善しようとする二つのNGO団体の活動に関わることになった。このNGO団体の活動を通して戦争の引き起こす惨状について考えてみたい。

一つ目のNGO団体は核兵器廃絶・平和建設国民会議(KAKKIN)である。1961年に結成したこの団体は今日まで被爆者支援の活動を続けている。毎年広島・長崎で独自に平和集会を開催するとともに連合の平和集会にも参画している。また、発足時から現在に至るまで毎年被爆者支援カンパを独自で行い、その浄財で広島・長崎での被爆者支援を続けており、そのカンパ総額は今日まで15億円を超えている。さらに広島で被爆しその後帰国した韓国人被爆者への支援も韓国を訪問し大韓赤十字社と連携して行っている。広島・長崎への原爆投下により一瞬にして非常に多くの方々が亡くなった。生き延びた被爆者の方々も被爆の後遺症に加え偏見や差別などもあり大変な苦労をされた。韓国に帰った被爆者たちも同様であり国の支援もなかったため、KAKKINは日本から医師団を派遣するとともに診療所を建設した。そして現在、韓国在住被爆者の多くが入居している原爆被害者福祉施設を支援している。また、連合と共に5年に一度国連本部で開催されるNPT再検討会議開催時にニューヨークへ代表団を送り、被爆国日本のNGO団体として核兵器廃絶を訴え、悲惨な被爆の実相を伝える活動を行っている。

NPTとは核兵器不拡散条約であり1970年3月に発効した。外務省資料によると「米国・ロシア・英国・フランス・中国の5か国を核兵器国とし、それ以外の非核兵器国への核兵器の拡散を防止するとともに、誠実な核軍縮交渉を義務付け、さらに原子力の平和的利用のための協力を促進することを主たる目的とする条約である」とされている。条約締結時にすでに核兵器を保有していたかどうかで線引きをした何とも不平等な条約であるが、核兵器をこれ以上拡散させないという国際社会の意思を示したものであり、核軍縮に向けて機能してきた唯一の国際条約として重要視されていた。しかし近年、核兵器国に求められた核軍縮の努力がないがしろにされている。また、現在核兵器を保有しているといわれているインド・パキスタン・イスラエルはNPTを批准していない。さらに批准しているはずの北朝鮮は公然と核戦力の強化に向けて国力を集中させ、国連安保理の決議も無視しづけているといった状況にある。2022年に勃発したロシアによるウクライナ侵略によりいまだに悲惨な状況が続いているが、ロシアは核兵器の使用を脅しに使い、ベラルーシにロシアの核兵器を配備するなどNPTに反した行動を行っている。しかも国連安保理の常任理事国は5つの核兵器保有国で占められ、拒否権を有するため国連の場で問題を解決することは難しい実態にある。このようなことで良いのかが問われている。現状、核兵器廃絶に向けた動きは止まっているが、NPTに沿った核軍縮および非核兵器国への拡散阻止に向けた動きを強めなくてはいけない。インド・パキスタン・イスラエルは、核兵器を廃棄しNPTを批准しなくてはならない。北朝鮮に対しては核兵器の廃棄を求めるため国際社会はもっと強固に一丸となった圧力をかけることが重要である。核兵器をひとたび使用すればどのような結果を招くのか、その経験を唯一有する日本のリーダーシップが強く求められている。

二つ目のNGO団体はアジア連帯委員会(CSA)である。CSAは1981年4月にインドシナ難民共済委員会として発足し、その後活動内容の変化に伴い3度名称変更して現在にいたっている。 発足当時を振り返ると、ベトナムでは1975年のサイゴン陥落前後に旧ベトナム政府・軍の関係者およびその家族や社会主義体制の下で迫害を受ける可能性のある人々が難民として大量に国外に脱出し、陥落後もボートピープルとして国を捨てた。日本にも多くの人が逃れて支援を求めてきた。ラオスは、1953年フランスの植民地支配から脱してラオス王国が誕生したが、内戦により左派のラオス愛国戦線が全土を掌握したため多くの人々が難民としてタイ国内に脱出した。カンボジアは、ラオス同様1953年にフランスの植民地支配から独立したが、内戦が続き1979年にカンボジア人民共和国が樹立され、首都を追われた旧政府側はゲリラ戦を展開したため、多くのカンボジア難民がタイ国内に流出した。いずれの難民もタイ国内での難民キャンプでは大変厳しい生活を余儀なくされた。ひとたび戦争や内戦がおこれば、多くの国民が国を捨て難民とならざるを得ないことはこれまでの歴史が示している。当時、日本政府もインドシナ難民としてベトナム、ラオス、カンボジア難民の定住受け入れを決めたがその受け入れ枠は非常に少なく国際的地位にふさわしい責任を果たしていたとは言い難いものであった。

このような状況を踏まえCSAは当時の労働団体旧同盟の援助を受け支援活動を進めてきた。代表的な定住支援活動として日本国内での相談窓口開設、日本語学校への入学支援制度、医療基金制度の設立などに取り組んだ。その後、難民たちは本国へ帰還できるようになったものの、厳しい生活を余儀なくされる状況は変わらなかったため、CSAは帰国した難民に対して救援衣類を送るなど支援活動などを続けてきた。具体的には、1981年から2019年の間に合計で約4,500トンの救援衣類を国内で集め、タイ・ラオスを中心に船便と陸送で必要とする場所にとどけた。両国政府から感謝される活動であった。現在は、連合を中心とした諸団体および個人の支援の下でラオスに帰還した難民支援として教育支援に力を入れている。これまでに26校の小学校を建設・寄贈するとともに、高校生寮も1か所ではあるが建設・寄贈しその運営を支援している。

戦争行動は国家間の問題解決の一つの手段と位置付けられてはいるが、ひとたび起こってしまえば非戦闘員である一般国民に多大な影響や被害を与えるものであることは、前述で触れた実態や現在世界で起こっている戦争状況を見れば明らかである。したがって戦争行動は極力避け外交面での問題解決が最も重要であることは論をまたないが、現実を見ているといくら言葉で言っても非常に空しいものがある。しかし、核兵器を廃絶し戦争のない世界を実現することは、世界中の人々の強い思いであると信じるので、その実現のために心を一つにして行動することを切望したい。

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