特集

外交的努力で『戦わずして勝つ』政治を求める

2023/10/02

 
特集「戦争を考える」②
森田定和関西支部代表

父の従軍、家族の疎開

父は、戦前、大阪市内で履物店を約20年間営んでいたが、陸軍の歩兵(第19聯隊)として延べ8年間、中国各地を転戦した。

母は1945年3月の大阪空襲の前に、子供3人(兄2人、姉1人)を連れ母の郷里、滋賀県の農村に疎開した。戦争が終わり復員してきた父は、ボロボロの服を着たまま母の郷里に辿り着いた。それから、"よそ者"としての父は裸一貫から家族を守る生活を母と共に始めた。1948年に生まれた私の名前は"安定した平和"を願って付けたと父が言っていた。親戚に支えられ農業に従事、必死で働いたが生活は決して楽ではなかった。

2番目の兄が中学三年生の時、父が就職先を一方的に決めて来たため、担任の先生が兄の将来を考え高校進学を勧めに慌てて自宅まで来られたという。しかし、兄はその会社に就職することになった。兄の悔しさを思うと今でも胸が痛む。父とてわが子が望む教育を受けさせてやれないわが身の不甲斐なさをどれ程嘆いたことだろう。戦争は終わっても、数十年にわたり人々の暮らしや人生にとても大きく影響することを忘れてはならない。

戦争の惨状

父が行軍中に見た、多くの人々の膨れた死体が河に浮かぶ惨状、隣の戦友が被弾して一瞬にして死んだことなど、時々目に涙を浮かべながらつらくても体験を家族に話してくれた。「中国人には悪いことをした。戦争だけは絶対したらあかん」とよく言っていて、軍人恩給も受け取らなかった。子どもだった私は、ある時、「そんだけ戦争が嫌やったら、なんでその時、反対しなかったん!」と父に言ってしまった。戦前、軍事優先の全体主義的風潮の中で、声を上げることがとても困難だったのにも拘わらず...。戦後の社会ではどうか。父に放った言葉は、その後、私の人生に影響することになった。

持続する志

大学生の頃、日本労働組合総評議会(総評)が呼びかけた10月21日の国際反戦デーには、ベトナム戦争反対の御堂筋デモに何度も参加した。市役所に就職後も、反戦デモには参加し続けた。市職員組合執行委員長の時、定期大会では箕面忠魂碑訴訟の原告に来賓挨拶を頂戴した。これは、戦争で家族を亡くされた遺族の心情を理解しつつ、市職員として二度と召集令状(赤紙)を届けるような社会にしてはいけないと考え、組合内で議論し原告や広範な市民と共に、仕事を通じ反戦平和・反差別の街づくりに取り組もうとするものだった。

戦後の平和と憲法

明治維新(1868)から77年間は富国強兵策により日清戦争(1894)、日露戦争(1904)、第一次世界大戦(1914)、満州事変(1931)、日中戦争(1937)、太平洋戦争(1941)と続き、敗戦(1945)迄に内外の多くの人命や領土を失った。

戦後78年間は戦争をせず、平和が続いて来た。それは、日本国憲法の下で「日本国民は、(中略)政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようすることを決意した」(前文)のであり、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(第9条第1項)と定め、国民が支持してきたからだろう。

何をなすべきか

第二次世界大戦後、1945年に設置された国連は、世界の平和と安定に貢献するのが本来の役割だが、安全保障理事会で常任理事国の米露中英仏のみが拒否権を持っており、自国にとって不都合な議案があれば、拒否権を行使するため常任理事国が当事者となると人類は戦争を止められない事態に直面している。

例えば台湾有事。仮に武力衝突から戦争状態に突入した場合、中国は国連では拒否権を行使し勝利するまで戦うだろう。ウクライナ情勢を見て明らかなように、米国は米国防衛上、ロシア国内への反撃を認めないように、台湾有事でも同様のことが起きるだろう。沖縄の米軍基地、自衛隊のミサイル基地などはどうなるか、明らかだ。台湾や日本周辺の平和を守るために何をなすべきか。

国の貿易統計によると、日本の貿易総額に占める中国の構成比は20%強と過去最高水準にあり、米国の約15%に比べて日本経済に大きな影響を与えていることを直視すべきだ。

戦争は政治の一形態という。自衛しつつも経済的制裁、武力による威嚇偏重を避け外交的努力で「戦わずして勝つ」(孫子の兵法)政治を求めたい。 今こそ国民は悲惨な戦争の歴史に学び、今日の日本の繁栄は内外の多くの人命や犠牲の上にもたらされたことを肝に銘じ、浅慮で再び惨禍を繰り返すことのないよう、腹を据えて政治に参加することが求められているのではないだろうか。

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