特集

危うい日本のファイティングポーズ

2023/09/19

 
特集「戦争を考える」①
山田計一前代表

世界は新帝国主義の闘い

ロシアとウクライナの戦争をきっかけに日本の外交姿勢が変化し、一気に「ファイティングポーズ」が強まったように映る。5月15日の当欄で森下一乗会員が「人はなぜ戦争するのか?」というテーマを取り上げられたのも、そうした雰囲気をとらえてのことだろうと思う。朝鮮半島からの引揚げという強烈な原体験をおもちの森下さんと、「戦後民主主義」教育のもと、思春期以降「明日は今日よりよくなる」といった経済成長の恩恵の日々を過ごした能天気世代のわたしとでは、比べようもないが、それなりの危機感は募らせている。ただとりとめのない思いが駆けめぐるカオス状態からの出口をまさぐっている。

わたしはベビーブーム(団塊世代)の一年前の1946年に生まれた。戦争については小学生のころ父親が体験話を夕食時によくしてくれた。父は海軍の衛生兵で駆逐艦に乗り上海など中国の港、インドネシア、マレー半島、フィリピンや南洋諸島をめぐり、艦が4回も沈む経験をし、最後は不沈駆逐艦「雪風」に乗り、戦艦大和の最期にも付き合った。

「ドーンと魚雷が艦にあたったとき、必死で甲板まで駆け上がった。すると隣に両足ひざ下の切断手術を受け船底で横になっていたはずの水兵がいた。どうやって上がってきたのか本人に聞いても『分からない』」という話に驚き、「艦が沈み、板切れにつかまって泳いでいたところ隣にいた将校が『ギヤ―』と声をあげて、サメに引きずり込まれていった」に恐ろしさを感じた。南洋の港に半舷で上陸した際に楽しく騒いだ戦友との思い出話もあり、いつも興味深く聞き入った。だが話の最後によく「そやけど戦争はあかん」と真顔で話した。子ども心にも強く印象に残っている。

紋切り型の普遍的価値観

いまの日本に危機感が募るのは、台湾有事の可能性が喧伝されそれに合わせるようにトマホークの購入、防衛予算の倍増、南西諸島での自衛隊配備の拡充、武器輸出の緩和などとこれまでの「歯止め」が次々と取り外されていくところにある。

とりわけ岸田首相がNATO首脳会議にパートナー国として出席したことは衝撃だった。「ロシアによるウクライナ侵略はルールに基づく国際秩序の根幹を揺るがした。インド太平洋地域におけるパワーバランスもまた急速に変化しており、われわれは、力による一方的な現状変更は世界のいかなる場所でも認められないとの認識を共有する」ということのようだ。
すぐに第一次世界大戦に極東の日本が参戦したのは日英同盟が大きな要因とされていることを連想した。「こんなにウイングを広げて、このおっさん何を考えてんのや」。自衛隊の戦車にのって得意満面の写真を見て滑稽さと同時に言うに言われぬ違和感を覚えてはいたが、「これだったんだ」と唖然とした。

岸田首相は「自由、人権、民主主義、法の支配という普遍的価値観を共有する国々とともに...」という言葉を紋切り型でよく使う。NATOとの連携強化の際にも枕詞だったと記憶する。確かにわたしたちも、現行憲法の前文にある普遍的理念につらなるものとして当然のように受け入れてしまっている。しかし、現実に自分たちの国ですら消化しきれていないものを、対抗軸のようにかざすことが適切なのだろうか。

現に、世界にはそうした価値観は欧米中心史観の「世界史」が積み上げてきた思想にすぎないとする考え方がある、という事実を見逃してはならないように思う。中国をはじめイスラム世界やグローバルサウスの中にもそうした考えの国は少なくはないと思われる。それぞれの国には歴史があり、宗教、文化、価値観があるのだ。
短絡的とのそしりを受けるかもしれないが、戦前・戦中の日本であった「近代の超克」論議が思い浮かぶ。哲学者小林敏明氏は著書の中で書いている。"東洋的無の立場"を示した京都学派の論客・高山(こうやま)岩男が「近代の世界史はヨーロッパ世界の世界史たるを免れなかった。ヨーロッパ世界の非ヨーロッパ地域に対する涯しなき拡張、西欧的な近代資本主義、機械技術、近代科学、個人主義法制、政党的議会主義等々(中略)植民地化の趨勢―このような驚くべき事実の上に近代世界史が成立しているのである」―と。

「普遍的価値観」も結構だが、能天気な紋切り型の使用は国際社会で「日本がファイテイングポーズ」を強めたとしか受けとられないことを認識するが必要あるのではないか。

ヘゲモニー国家交替への過渡期

世界の不安定化はアメリカの力が相対的に衰えていることに起因しているというのは異論のないところだろう。覇権国家について、歴史学者ウォーラスティンやその影響を受けたという柄谷行人の興味深い見方がある。覇権国家が維持できるのはせいぜい60年。次の覇権国家が確立するまでの流動期もおおむね60年だという。1971年のドルの金兌換制の停止をへて1990年以降ヘゲモニー国家から転落してあがくアメリカと、次の座を狙う中国、インドなどとのつばぜり合いがいまの世界ということになるそうだ。

柄谷らによると、「自由主義」とは近代世界のヘゲモニー国家がとる経済政策で福祉国家につながるものであり、「帝国主義」とはヘゲモニー国家が衰退して、多数の国家が次のヘゲモニー国家の座をめぐって争う状態―だという。アメリカがヘゲモニー国家からずり落ちて以降、ソ連の崩壊もあって新自由主義が世界を席捲。柄谷は、新自由主義は自由主義とは真逆のもので、資本の論理が世界中を駆けめぐる「新帝国主義」と位置付ける。なるほど世界の労働運動が蹴散らされたのもそういうことか、と思ったりもする。わたしたちは「新帝国主義」の時代に生きているのだ、とあらためて自覚させられる。

なぜ被害者意識が薄いのか

ウクライナの戦争で、ロシアが軍事施設ではない病院や学校などを無差別に攻撃したと非難する声がしばしば上がる。アメリカからそういった声が出ると「どの口が言うか」と思う。日本は太平洋戦争で、原爆はもちろん東京大空襲をはじめ全国の多くの都市が無差別空襲を受けたではないか。原爆、空襲の慰霊のメモリアル的な行事はあるが、アメリカに対する抗議のうねりがなぜ起こらなかったのか。アメリカ大統領の原爆資料館見学ですら腰が引けた対応しかできていない。

韓国では「反日」感情が根強い。併合され皇民化教育や創氏改名(強制だったかどうかは見解が分かれる)が推進されるなど文化まで踏みにじられた側、やられた側は忘れないのは当然のことだろう。では日本人の「反米」意識の弱さはどう理解すればいいのだろう。「アメリカは日本に民主主義を根付かせ、経済的発展に寄与してくれた」とでもいえばいいのだろうか。

戦後民主教育の真っただ中で育ったわたしにとってアメリカは憧れの国でしかなかった。小学生のころはランドルフスコットの西部劇に拍手し、自宅にテレビが入った昭和35年ごろのドラマは多くがアメリカからの輸入品だった。神武天皇から9代は架空と教わった。神さまだった(昭和)天皇は人間になったとも。天皇制を残しながらの皇国史観否定。
「近代の超克」の議論についてもそうだ。加藤周一ら戦後民主主義の旗手たちによって全否定され葬り去られた。「マッカーサー元帥から近代文明ABCの手ほどきを受けている現代日本...」(丸山真男)だったのだ。
少なくとも「戦後民主主義の欺瞞性」を指摘した吉本隆明らが登場するまでは。

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