特集

戦争についての一考察

2023/10/23

 
会員・小野豊和(元東海大学教授)

「戦争について」という題をいただいたが、戦争経験者でない戦後生まれが語ることは難しい。広報の専門家でもあるので「プロパガンダ」について考えてみた。今でこそ時の政府が、国民に戦争の正当性を印象付ける戦略をプロパガンダと言うようになったが、その発端は「種をまく」ことでカトリック教会の布教の精神だった。第二次大戦で、宗教班としてフィリピンに赴いた父の手記から当時の父の思いが、バチカンの「種まき」と類似していることに気づき検証した。

プロパガンダという言葉が世に出て来たのは、1662年にバチカンに設置されたCongregatio de Propaganda Fide(現在の福音宣教省)が始まりとされている。大航海時代に欧州列強が新大陸を目指して船団を組んで出かけていくが、キリスト教の宣教師も船上にいた。ラテン語のプロパガンダの意味は「種をまく」という意味で、神の教えを伝える布教が目的であった。布教の目的を果たすには新天地を統治する必要があり、宣教には軍隊の後ろ盾も必要だった。無敵艦隊と言われたスぺイン艦隊は南米に出かけ、この地に元々あった歴史的・伝統的な王族と土俗宗教を駆逐し、キリスト教化に成功する。やがて太平洋に出ると、フィリピンを占領し、この地域のキリスト教化にも成功する。キューバ問題で覇権を争った米西戦争(1898年)でスペインが敗れると、フィリピンはアメリカの統治下となり、バチカンを頭とする旧教で組織的にまとまっていた社会に自由度の高いプロテスタントの布教が始まり社会の困難を招くことになる。

日本軍は1941年12月8日の真珠湾攻撃を機に対米戦争を開始する。同時進行で日本軍はフィリピンに侵攻するが、フィリピンは、スペイン占領下、国民の大半がキリスト教徒化したことで、他のアジア地域と異なり、キリスト教関係者で構成された宗教宣撫班を軍属として派遣した。

私の父は王子製紙の調査課に勤務していたが、カトリック信者として、1941年11月、比島宣撫宗教班の一員として徴用によりフィリピンに向かった。その目的について著書の序文で語っている。

「帝国は南方諸民族の魂に深く根ざしている宗教に留意して、開戦と共に南方諸地域全般に対し、信教の自由を宣明したるのみならず、第一線部隊に伍して各地域の宗教事情に応じて、仏教、回教又は基督教の教職者及び信徒からなる所謂宗教部隊を上陸せしめて、帝国の声明を実効あらしめたことは今次大戦に於いて特記すべき事例である。蓋し南方諸民族との間に心からなる理解と提携なくしては、大東亜の建設も空中楼閣に終らざるを得ない。東亜百年の建設戦は魂と魂との完全な一致から出発しなければならない。この意味に於いて気候風土文化など夫々の環境と歴史的伝統の内に形成せられた各民族の間を完全に結ぶものとは何か。同一の信仰にまさるものはあるまい。カトリック教は国家民族の如何を問わず、その教義信条に於いて一であって、各民族はこの同一の信仰を通じて完全な意思疎通に到着することが出来るのである。...司教司祭神学生及び信徒からなる宗教部隊を大東亜圏に於いて絶対多数のカトリック信徒を有する比島に派遣したのである。...宗教部隊の活動に当たって、部長成澤中佐殿を始め、軍官民各位の御尽力を負う処多大であったが、比島には特に秘めざるを終えなかった.。...(昭和18年8月15日)

12月8日の宣戦布告を赴任途上の台湾で聞き、12月24日未明、フィリピンのサンチャゴ海岸に上陸し、比島第一歩を踏んだ。総勢26名(カトリック14名、新教12名)で1年間の活動を開始した。

陸軍当局の明示に「宗教は原住民の心底の心境に深く浸透し、その信仰心は極めて旺盛なるを鑑み、在来の宗教は統治に妨げなき限りこれを保護するの方針に依り、又信仰に基づく風習は努めてこれを尊重し以て人心の安定民心の把握に資している」とある如く、宗教部隊の任務は帝国の表明した信教の自由を実効あらしめ、人心の安定、相互の理解を深めんとするにある。云い変えれば軍の方では教会を保護してやりたいが、どう云う風にすればよいか分からない。教会側では新比島建設に努力したいが、勝手がわからない。この両者の間にはいって、とりもつ役が宗教部であった。かくの如く我々の任務は「宗教を通じての比島民に対する意思疎通」にあったのであるが、同時に宗教に就いての専門的立場から占領地の軍政下にあって、宗教行政に関与すると共に、宗教を通じての日比親善関係の育成助成に努めてきたのである。...カトリック教は世界の宗教であって...信仰と云う水準に於いては敵味方もない。「私は日本の司祭です」と云って手を差し伸ばせば、「私は比島人のカトリック信者です」と云って握り返すと云った風に、其処に何のこだわりも無く直ちに握手することが出来たのである。この共同信仰に基づく相互の理解から我々の任務遂行のすべてが出発したのである。...人口の八割余、1,300万のカトリック信者に一々接するわけに行かないので、我々は先ずカトリック教会組織を通じて民衆に及ぶと云う方法を取ったのである。...従ってマニラ入城と共に、マニラ大司教、各修道会、病院学校孤児院等を訪問して教会当局の首脳部と面接し、宗教部の真の目的をよく説明して皇軍の治安回復活動に協力するよう勤奨したのである。その結果、教会上長、修道院長から教会の主任司祭、修道院関係事業を通じて一般信徒に日本軍の意図が漸次徹底することとなり、宗教部の名は旬日を出ずして全比島に広まったのである。特にマニラ大司教オドハティ師は既述の如く教区の巡回に当たって、全司祭に回書を送り、日本軍に協力して比島再建に精進すると共に、各教会に於ける説教に於て皇軍に協力して進むべき民衆の途を説いて回ったのである。(以上は小野豊明著『比島宣撫と宗教班』昭和20年3月15日発行、中央出版社 から抜粋)

在任1年間は、日本軍と比島教会側とのとりもち役を果たすことで、宗教を通じた意思の疎通が功を奏し、事故もなく、双方に一人の犠牲者も出すことは無かった。「今次大戦に於て宗教部隊が編制されたと云うことを考えると、こうした事柄はもう問題ではない。我々が徴用せられたのがカトリック司祭であり、カトリック信者であるからであって、司祭、信者でなければ出来ない職域奉仕の分野の一翼として、情報宣伝の一部面として存在していたからである。これは何を意味するかと云へば、日本帝国がカトリック的真理を認識し、全世界に於ける三億余の信徒を有するカトリック教会が常に正義の教を以て人類を正しく導いて来たこと、世界の真の平和を常に愛好していることを正しく把握した結果であって、一方バチカンに原田公使を特派して親交を深めると共に、南方にあるカトリック教会と相提携して南方の治安回復に努力せんとしているからである。カトリック者でなければ御奉公出来ない分野が、而も極めて重要な部分があると云うことを日本カトリック信者自身が改めて認識しなければならない。国体に合うかとか、日本の家庭に合わないとか云っているの時代ではない。国家がその総力の一翼としてカトリック信者の積極的協力を要請しているのである。次に周知の如く南方特に比島は非常に米国化されている。所謂カトリック教国でありながら、米国化の惨禍はひどいものがある。この米国化を防止して来たものは、又これを救うものは何かと云えばカトリック教以外にないと思う。(筆者が帰国した1943年2月11日上智大学に於ける帰還歓迎講演会及び3月18日帝大カトリック研究会に於いての講演から)

1年の任期を終え、宗教班は一部を残して帰国するが、その後戦況が悪化していく。反日運動のゲリラ、それを支援するアメリカ軍、マッカーサー部隊の上陸により、宗教部隊が守ってきた治安維持が崩壊し、教会側に残った宗教団体の支援部隊(司祭、神学生、修道女たち)も砲弾により犠牲となり、民衆も略奪等の犠牲になる。

王子製紙社員に戻った父は、1943年6月から1944年10月まで、工場建設のために再びフィリピンに赴き、残していた宗教班員やカトリック女子宗教部会と接触することで「極秘・比島ローマカトリック対策」の文書を手にする。比島派遣軍司令官筋が「フィリピンのカトリック教会のローマからの離脱」を主張し始めていた。新教側は分離に応じてフィリピン福音主義教会連盟をつくるが、カトリック側は田口司教(大阪司教)と相談の上、当時軍政最高顧問であった村田省藏氏のもとに集まり、極秘文書を作成し善後策を講じたことで、ローマカトリックからの離脱を阻止できた。その結果、戦後のフィリピンカトリック教会にとって、ローマカトリックと同じ共同体として存続できる恵みとなった。新教に関しては、元々全世界で組織化された教会ではないため、新教代表者会議を開き、一時的にフィリピン福音主義教会連盟が結成され、日本軍に対する協力を内容とする誓約書を配布し、それに署名することを要請した。米国人宣教師4名が署名を拒否し、1945年2月、米軍に解放されるまで収容所に入れられた。

以上は、大航海時代にキリスト教国が新天地への布教を目的とした行動と似ているが、欧州列強はキリスト教がまだ根付き育っていない地域に種をまいた。日本軍は、特にカトリックが根付いた地域のフィリピンで、現地の宗教(カトリック)を尊重しながら、日本軍として信教の自由を旗印に協力を要請した点が大いに異なる。宗教班の人々は、徴用ではあったが、日本軍の方針を信じて、信仰心と純粋な気持ちで「宗教による意思疎通」の役割を果たした。しかし、戦況悪化により、軍部は当初の方針を変更し、ローマカトリックとの分離を強要することで、ローマからの支援を得られないよう画策した。皮一枚で分離を阻止することが出来たが、フィリピンは日本軍、ゲリラ、米軍の戦場と化し多くの犠牲者を出すことになった。

「種まき」で始まった活動であったが、果たして日本国にフィリピンの戦況が正しく伝えられていただろうか。宗教者として、民族に隔たり無く、信教の自由政策を信じて行動したが、日本国民としては戦争の当事者でもあった。

戦争プロパガンダが国民の選択の自由を奪う

第一次大戦は近代プロパガンダ戦の始まりと言われ、各国政府はポスター、新聞雑誌を通じて宣伝工作を展開し、敵への憎悪を摺り込み、愛国心を煽った。 アーサー・ポンソンビーが『戦時の嘘 戦争プロパガンダが始まった』で、戦争プロパガンダの分析を行うが、その後、フランスの歴史家アンヌ・モレリが『戦争プロパガンダ10の法則』の中で10要素を挙げ、第一次大戦に限らず、あらゆる戦争において共通していることを示した。序文で「私たちは、戦争が終わるたびに自分が騙されていたことに気づき、『もう二度と騙されないぞ』と心に誓うが、再び戦争が始まると、性懲りもなくまた罠にはまってしまう」と指摘しているように、民衆は、戦争反対にもかかわらず、戦争を容認する方向に引き連られて行く。①から⑩に至る過程で、赤紙一枚で、否応なしに国民は、戦地に追いやられていった。

【戦争プロパガンダの10要素】
  1. 我々は戦争をしたくはない。
  2. しかし敵側が一方的に戦争を望んだ。
  3. 敵の指導者は悪魔のような人間だ。
  4. 我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命(大義)のために戦う(正戦論)。
  5. 我々も誤って犠牲を出すことがある。しかし、敵はわざと残虐行為におよんでいる。
  6. 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。
  7. 我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大(大本営発表)。
  8. 芸術家や知識人も、正義の戦いを支持している。
  9. 我々の大義は、神聖(崇高)なものである(聖戦論)。
  10. この正義に疑問を投げかける者は、裏切り者(売国奴、非国民)である。

核廃絶無くして世界の平和は実現しない

ノーベル賞を受賞したICANは、核兵器廃絶を主張し続ける。核兵器禁止条約は今日までに92か国が署名、国連加盟国193か国のうち122か国が賛同している。それでも「核兵器保有国が参加しなければ意味がない」という批判がある。1970年に発効した核拡散防止条約(NPT)がある。この条約は核兵器の保有を、当時核兵器を持っていた米国、ソ連など5か国が軍縮に取り組むことを義務付けたものだ。だが現実には、核兵器保有国は増え、2005年以降前進がない。2010年頃から別の条約を作る必要性が叫ばれ、NPTの条約策定が始まった。しかし、この条約交渉会議を、核兵器保有国9か国はボイコットした。核保有国に任せておいたら、いつまでたっても核兵器がゼロにならない。そこで非保有国が先に進もうとしたのが核兵器禁止条約だ。条約交渉は国が行うが、それを支えて来たのが市民運動と世界のNGO(非政府組織)だった。ICANは国レベルでは動かない核保有国に対し、都市ごとに働きかけ、現在、米国のニューヨークやフランスのパリ、英国のマンチチェスターなど、核兵器保有国の主要都市が条約への賛同を表明している。

ローマ教皇ヨハネス23世が1963年に回勅『地上の平和』を発表した。武力の均衡によって戦争が避けられるとする「抑止論」を否定し、愛による支配を説き、「人間の心にまで及ぶ」軍備縮小を訴えた。所謂キューバ危機で、ソ連がキューバにミサイル基地を築き、米ソの対立が核戦争に発展する危機が迫った。この事態はバチカンの介入などにより衝突が回避された。

ロシアのウクライナ侵攻が始まって1年8か月、ローマ教皇が仲裁ではないが、ロシア正教のキリル総主教に会い、中国に特使として枢機卿派遣など積極的な動きを見せているが、キューバ危機回避が実現できたようになるか見通せない。

結末のない論考であるが、わたし自身カトリック信者として「人間の心にまで及ぶ」軍縮、核廃絶を祈るしかない。

【参考文献】
  • 「比宗宗教班関係資料集」第1巻、第2巻、小野豊明・寺田勇文編、龍渓書舎、1999年
  • 「戦争プロパガンダ10の法則」アンヌ・モレリ著、草思社文庫、2015年
  • 「回勅 パーチェム・イン・テリス―地上の平和」ヨハネス23世、ペトロ文庫、2013年  他

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