特集

戦争をしない国日本

2023/11/06

 
会員・早川行雄

父は戦時中の体験について多くを語らなかった。とりわけ、学徒徴兵に応召した後の軍隊経験についてはほとんど聞いた記憶がない。父が特別攻撃隊に配属され特攻訓練を受けていた話は親類から聞いていたのだが、一度だけ晩年の父が往時の訓練について語ったことがある。乗用車の免許取得にも大いに苦労したほど不器用な人であったから、父は無論パイロットではなかった。敗戦も近づいたころ、日本軍も初歩的な「電探」(電波探知機=レーダー)を開発しており、父は電探操作の指導を受けて、複座式の戦闘機でパイロットと共に敵艦に体当たりする夜間特攻の訓練をしていた。とはいえ、「電探」の性能たるや極めて劣悪で、少し波が高くなると船影と波の識別すら困難であったという。そのような夜間特攻が実際に敢行されたのかどうかは分からない。それよりも重要なのは、親類の話によると、当時父は既に出撃が予定されており、母(私の祖母)宛てに遺書も送られていたということだ。つまり敗戦があと1カ月も遅れていたら、今の私は存在しないということである。これは私の反戦平和に対する執着の原点でもある。

敗戦を契機に制定された日本国憲法は国の交戦権を否定し常備軍の保有を禁じている。現憲法の成立過程にはGHQの関与など様々な議論もあるが、東西冷戦が激化する情勢の下、米国は1947年のトルーマン・ドクトリンにより冷戦体制の戦略を固め、1949年の中華人民共和国建国を経て、マッカーサーは1950年に日本を「共産主義進出阻止の防壁」と規定し再軍備を認める声明を発した。同年に朝鮮戦争が勃発する中で警察予備隊が創設され、翌1951年のサンフランシスコ講和条約は第3章において、日本は個別的・集団的自衛権を持ち、集団安全保障条約に参加できるとした。日本の常備軍は1952年保安隊に改組、1954年には日米相互防衛援助協定(MSA)により自衛隊の創出に至る。これが俗に言う「逆コース」の時代状況であり、レッド・パージや日教組弾圧の民主主義圧殺時代に至る。重要なことはこの「逆コース」に抗して、戦後一貫して革新陣営や有識者らによる護憲運動の力で、改憲を党是とする自民党による改憲の発議を許さず、非武装中立の憲法理念を辛うじて守り抜くことで、憲法を国民自身による選択として定着させてきたことである。

対立する陣営の片方に与する軍事同盟や国家権力の暴力装置としての常備軍が憲法違反であることは、砂川訴訟の伊達判決(1959年東京地裁)や長沼ナイキ訴訟における福島判決(1973年札幌地裁)からも明らかである。上級審は司法の独立を自ら放棄した統治行為論によって憲法判断を避けているので(司法の自己否定という悪しき伝統は名護市辺野古での工事を承認しない沖縄県に対して国が行った「是正の指示」を適法とした最高裁判決にも継承されている)、これらの判決をもって唯一の憲法判断とみなすのが相当である。

パリコミューンの宣言やレーニンの4月テーゼは常備軍の廃止を要求したが、国家権力の暴力装置としての常備軍を持たないことが直ちに広義の主権者の正当防衛的自衛権を否定するものではない。それはイスラエルによる国際法違反のパレスチナ侵略や現下のジェノサイド的ガザ地区爆撃や侵攻に抗するパレスチナ解放闘争に全世界で幾百万の民衆が圧倒的な連帯を表明していることからも明らかであろう。今この時にもイスラエルによる民族浄化の暴虐は続いているが、それを米NATO諸国のいわゆる欧米民主主義国家なるものが支援することで、端無くも民主主義を語る偽善者の馬脚を現す結果となっている。これら諸国のみがウクライナ紛争においてゼレンスキーを支持していることから、この紛争の構図も見えてくる(一方でプーチンの大ロシア覇権主義的外交や国内における人権弾圧が非難されるべきことも当然だが)。

米NATOの軍事力を背景とした世界支配とその衰退が誰の目にも明らかにされ、いわゆるグローバルサウスの台頭著しい現状において、非武装中立の平和憲法を擁する日本外交の真価が問われていることを護憲・平和勢力は厳しく自覚すべきだ。冷戦が平和共存敗体制に至り軍事同盟強化を目指す「逆コース」は一時凍結されたかにも見られたが、安倍政権の2012年体制成立を機に軍事同盟強化・軍事大国化に向けた策動がトップ・ギアで加速されつつある。敗戦直後の護憲運動において理念的な中心を担った南原繁が東大総長を辞するにあたって残したメッセージは「真理は最後の勝者である」であった。今再び南原の言葉を肝に銘じるべき時代状況を迎えている。

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