特集

一方的で偏った情報操作と軍国教育の恐さ実感

2024/04/15

 
会員・飯田康夫(第3代代表)

いま振り返ると、1933年(昭和8年)生まれの小生は、今年卒寿の90歳を迎えましたが、9歳前後の頃は、厳しい言論統制が敷かれ・言論弾圧もあり、一方的で偏った情報操作に振り回されていたものです。小学校では徹底した軍国主義教育を受けさせられ、軍国少年の精神を叩きこまれて過ごした少年時代でした。小学校(当時・国民学校)2年、8歳当時、昭和16年12月8日未明、対米への宣戦布告もなく、日本の軍部はアメリカ・ハワイ州のオアフ島にある米軍事基地・真珠湾を奇襲攻撃、米海軍に大打撃を与え、戦争への道―太平洋戦争に突入、国民に大きなショックを与え、数年にわたって国民の犠牲を強いることになりました。当時、京都府下に住まいし、聞こえにくかったラジオから興奮した声高な報道、それは真珠湾攻撃大勝利の様子を伝えるものでした。それから人生80年余を経て、今卒寿を迎え、あの興奮しきった当時の情報を耳にしたときの、何と表現すればいいのか、鬼畜米英と呼び敵に回し、神国日本は勝利あるのみ、負けるということはあり得ないということを叩き込まされた苦い思いが、かすかに脳裏に残っています。戦争は決して起こしてはならないのです。戦争は、多くの国民が犠牲になるということです。それもみじめな敗戦へ向かった日本軍は、世間知らずの独断・独走だったのです。いまこそ、ニッポンから国際舞台に向け、真の平和を世界に発信しなければならない。被爆国日本には、その責任があることをしっかり自覚したいものです。

大東亜(解放)戦争だ、太平洋戦争だと叫ばれ、鬼畜米英、撃ちてし止まん、敵艦、敵機の撃沈・撃墜という単語が飛び交い。いま思い返しても、ぞっとする一方的な情報戦略に踊らせられ、欲しがりません・勝つまではーなど無謀な戦争に突入。昭和16年から20年8月の終戦までの4年近く、戦争に振り回された小学生時代を送ったものです。

市民の耳に入ってくる情報は、大本営発表の一方通行の勝利報道ばかり。やれ何隻もの敵米軍の軍艦を撃沈したとか、飛行機を何機撃墜したなど威勢の良い成果だけが新聞、ラジオから流され、小学生たちは、太平洋の地図を広げ、数多い島々の上に日本国旗を立て、高鳴る気持ちを躍起させていた苦い思い出があります。神の国、日本には、神風が吹くなど、いま振り返ってみて、情報操作され、真実が知らされない暗い社会に国民は疑心暗鬼。第一線で血みどろの泥沼に陥り、命を賭け苦闘する兵士の真の姿は、目にする機会も奪われ、次第に苦戦する一方の戦争は、やれ玉砕だ、本土決戦だ、やがて広島、長崎が歴史上最悪の兵器・原爆の被害を受け、尊い市民の犠牲の上に終戦への道を辿ることになるのです。

戦時中は、勇ましい軍歌が流れ、家庭からは鉄製品の提供が求められ、巷では竹やりの特訓という、今では滑稽な話にしかならない真剣な訓練が展開されたものです。戦時中の食糧難はひどく、配給切符で僅かな黒いコメを入手、その米を一升瓶に入れ、竹の棒で時間をかけて突き。白米に近いお米をつくりだし、住宅近くの空き地を開墾し、サツマイモや、大根を植え付け、サツマイモの茎もいただく、大根は米粒ほどに細かく刻み、不足する食糧の足しにしたものです。飢餓寸前の食糧事情だった思いがあります。

昭和19年秋頃から20年夏8月の終戦までの間、阪神工業地帯(芦屋市)に住まいし、昼夜を問わず、警戒警報だ、空襲警報だのサイレンが鳴る度、防空頭巾をかぶり、命の危険を肌で感じ、防空壕に逃げ込んだものです。当時、通っていた小学校(国民学校)の教室には飛行機の部品が隠され、20年春から初夏のころ、米軍機B29による集中的な爆弾、焼夷弾攻撃を受け、学校は全焼。校庭の脇にあった松林の中で教科書を開いていたものです。このころ小学校6年生だった小生は、下級生を引率しての登下校。阪神工業地帯は、米軍機B29による集中的な爆弾・焼夷弾攻撃を受け、多くの友人・知人も含め国民が犠牲になったものです。よくぞ生き延びてきたともいえます。焼死体がトラックに積み込まれ、目を覆う惨状を目撃し、戦争が如何に惨い結果をもたらすのか、震えが止まらなかったものです。戦争は、弱者である婦女子・こどもなど見境なく殺戮するのです。国民はその犠牲の真っただ中に置かれ、人間の尊厳などないに等しく、今日のウクライナ、ガザの惨状を見聞するにつけ、如何なる理由をつけようとも戦争はこの地上から追放しなければならない最悪のシナリオなのです。空襲警報に驚愕の日々を過ごす中で、昭和20年の春から夏にかけては敗戦の色濃く、それからというもの、玉砕だ、本土決戦だという見出しが新聞に目立つようになりました。

日本には、神風が吹くであろうなどというバカげた流言がはびこり、戦争を鼓舞するも沖縄決戦という痛ましすぎる惨状は、善良な国民の犠牲の上に戦争が成り立っていることを示し、やがて原爆投下という史上まれにみる惨い被爆を体験、無条件降伏という結果を招いたものです。何も知らされない、批判精神も、反論すべき手段もない少年は、ただただ大本営発表のニュースに躍起してきた小学生時代。今、振り返ると、一方的で偏った情報操作に操られ、善良な国民の犠牲の上で展開される戦争は、決して起こしてはならない人類の恥であることを重く受け止めたいものです。

被爆国ニッポンは、今こそ世界に力強く平和を語り継ぐ責任があるのです。時のリーダーの国際識見のなさ、同じ人間を殺戮する力の論理で戦争を始めることは、最悪のシナリオであり、戦争が地上からなくなることを切に祈るばかりである。
先人の言葉に、過去の悲惨な戦争の歴史を学び、その実態を深く認識したものだけが、明るい未来を洞察することができる――ということを時のリーダーたちは真剣に学ぶ必要がありそうだ。

再度、人生90年の歩みを振り返ってみて、戦争の悲惨さを学び、戦争準備などは断じてあってはならないのだ。そのことに深い思いを巡らせ、真の平和国家日本を世界に発信する努力が、時のリーダーには強く求められるのだ。
そう、思い起こすと父親の転勤(旧国鉄・福知山鉄道管理局から大阪鉄道管理局へ)で、阪神工業地帯の芦屋市の鉄道官舎に住まい、岩園小学校に転校。上級生ということもあって小学1年生から5年生を引き連れての登下校の毎日。昭和19年秋頃までは米軍の飛行機も遥か高いところを偵察か、飛行機雲をなびかせながら飛んでいた景色が脳裏に鮮明に残っている。それが昭和20年を迎えると、沖縄決選が一段と激しさを増し、全国各地で米軍のB29による本土空襲が激しさを増し、空襲警報に怯え、防空壕生活の毎夜となった。

まさに国家に翻弄され、小学校では戦争礼賛、神国日本が徹底されるなど、昭和初期から終戦を迎えた1945年(昭和20年)8月までの期間、8歳から12歳の少年期を送り、阪神工業地帯で育ち、実体験してきた経験から、今、振り返り、多様なメディが存在し、多様な意見、異見が展開され、それを互いに認め合う自由で民主主義の大切さを改めて再認識したいものだ。

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