特集

「草の根の軍国主義」と「無責任の体系」

2024/06/03

 
谷田部 光一

草の根の軍国主義

戦争が終わって私は生まれた(1948年)。リアルな戦争を知らない団塊世代の後期高齢者である。

第2次大戦末期、東京に住んでいた私の母親が帰省すると、祖父(母の父)が「敵が来たらやっつける」と竹ヤリを作っていたそうである。母は東京で何度も空襲に遭っているので、北関東の農村部で空襲の洗礼を受けていない祖父の言動に、内心あきれたという。祖父は日露戦争に輜重輸卒(軍需品の運搬兵)として従軍していたが、戦争に対する認識はあまり進んでいなかったのかもしれない。

コンサルタント時代、クライアント企業の社長に聞いた話である。大戦中、国民学校高等科の生徒だった社長は、教師が勧める少年志願兵の募集案内を見て、「お国のためになろう」と、友人と一緒に応募手続をした。家に帰って父親にその報告をしたところ、父親は烈火のごとく怒り、直ちに役所に行って応募を取り下げてきたそうである。戦争を抽象的にしか把握できない純粋な少年と、実態を知る生活者としての大人の違いであろう。

見出しに掲げた「草の根の軍国主義」は、映画評論を中心に活動した故・佐藤忠男氏の著書のタイトルである。佐藤氏は、第2次大戦中に旧制中学の入試に落ち、海軍の少年飛行兵になった。著書のトーンは、軍国主義は国家権力からの一方的な押し付けだけでなく、国民全体から湧き出てきた要素も根底にはあった、―という趣旨だと私自身は解釈している。国によるプロパガンダ、情報統制、学校教育による誘導などの仕掛けは否定できないものの、漠然とした「国を守らなければならない」という国民のムードが、結果として「軍国主義」意識を醸成したということであろう。

「草の根の軍国主義」は今の日本でも起こりうる現象である。今日では、ブログやSNSなどネット上で、個人が主張や思いを発信できる機会が増えている。それはそれで良いことだと思っている。ただ、一方的な主張、偏った意見、誤った情報が拡散する恐れは、昔日の比ではない。

国を守る気概と戦争

某女性ジャーナリストが、「あなたには祖国を守る気概がありますか」、と憂国的なスタンスで新聞広告、著作、講演など様々な媒体を通じ持論を展開している。この主張に対しては、そもそも守るべき"国"とは何なのか、という根本的な疑問があるが、その問題についてはここでは置いておこう。国を守る手段は色々あるだろうが、彼女たちのグループの考え方では、要するに憲法を改正して軍事力を強化しよう、というのが主な結論のようである。

近隣のいわゆる覇権主義国家の横暴や"台湾有事"などのニュースに関して、ネット上でのコメントやSNSでは、今こそ我が国を防衛するために軍備を増強すべきだという熱い意見が多い。その際、日本国民の平和ボケなどと指弾され、該当する私などはグウの音も出ない。

ただ、古今東西の戦争は、侵略戦争でも全て自衛のためだと称して行われている。八紘一宇の理念に基づく大東亜共栄圏実現のため、あるいはABCD包囲網から日本を守るためなど、戦争を正当化する理屈はいくらでもある。もっとも、第2次世界大戦は、結局は連合国と枢軸国による帝国主義同士の領土争奪戦に過ぎない、といった説も若い頃には聞いたことがある。

ところで、素人考えによれば、自衛のために軍備を強化し続ければ、究極的には核兵器を持たなければならないことになる。私の少年時代には、原水爆実験による放射能(放射性物質)を含んだ"死の灰"が雨に混じって降り、その雨に濡れると頭がはげるという噂が子供たちの間で流布していた。私は頭だけでなく体が雨に濡れるのを極端に嫌いになり、現在でもその傾向がある。頭がはげるどころではなく、核兵器を使用すればどうなるかは、日本人ならよく知っている。

無責任の体系

前述したSNSなどネット上の空間では、防衛問題に限らず様々な事柄に対して多様な言説が飛び交っている。ただ、事実に関する認識不足、理論的な理解不足や知識不足に基づく、不正確な主張も多い。また、威勢のよい意見が多いが、「死ね」とか「殺す」とか、本来は忌避すべき言葉を軽々に使うケースが少なくない。リアルでない世界では無責任な発言が蔓延し、幅をきかせる可能性が高い。

かつて全共闘運動が全国の大学を席巻した頃、校舎を封鎖したバリケードの内側で、私たち学生はよく議論、討論していた。その際に実感したのだが、現実的で穏健な考え方より、現実味の無い過激な主張の方がなぜか優勢であった。閉ざされた空間では、非現実的な意見、主張の方が勝つのである。

戦争になったら実際に戦闘に従事するのは誰なのだろうか。ネット上で自衛のために軍備を増強すべきだと熱弁を振るっている人は、自分が最前線に立つことなど想定していないだろう。国を守る気概を煽る高齢者が、武器を持って戦闘現場に赴くことはないだろう。もっとも、遠隔操作の無人兵器、AI兵器が主力になれば、年齢など関係なくなるかもしれない。

「無責任の体系」は、先の大戦における日本の指導層の意思決定体制に関して、故・丸山真男氏がその特徴を指摘した有名な理論である。しかし本稿では碩学のような緻密な理論でなく、一般大衆のリアルさを欠く無自覚、無責任な言動が、草の根の軍国主義に結びつかないか、という疑念として見出しに掲げた。 国の防衛(国民の安全保障)は、常識的にいって単なる軍事力、軍備の増強だけでは実現できない。難しいことはよく分からないが、軍備以外にも、政治、経済、外交、文化など多様な側面による総合的な対策が必要だろう。その場合、為政者はもちろん、我々民衆にも客観的で冷静な認識と行動が求められる。そして日本の安全保障だけに矮小化せず、大きい話になるが全世界の人々の安全、平和のために、私達のような微力な個人が寄与できる方策、手段があるのか、平和ボケした高齢者としては、もう少し考え続けてみることにする。

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