2026/09/07
関西支部第3代支部代表で、会友の畑中清博さんが、さる7月7日ご逝去されました。享年90歳。畑中さんは、1996年12月入会、2005年2月の支部総会で第2代支部代表の埋橋孝文さんの後任として就任され、2012年10月の支部総会で玉泉孝次さんに支部代表を交代されるまでの7年8か月間務められました(森田定和・現関西支部代表)
京都労働基準行政のご意見番
埋橋孝文(第2代支部代表・現支部顧問・同志社大学名誉教授)
畑中清博さんは私が関西支部代表であった時期(1999年~2005年)に京都地区の幹事をおつとめでした。板東慧さんから代表の役職を引き継ぐにあたって、畑中さんは国政選挙に立候補されたことのある、京都労働基準行政のドン的存在であると聞きました。
しかし、関西労ペンの活動を行うにあたって偉ぶるところは少しもなく、同じく京都地区の幹事であった宮田栄次郎さん、三村義夫さんと協力して熱心に活動を支えてくださいました。西村健一郎京大教授を招いての「個別労働紛争」の講演会などは畑中さんのご尽力で実現したものです。
祇園のたしか「由良助」という名前のお茶屋に呼んでいただいたことがありますが、そこには京大、同大、立大、龍大などの錚々たる労働法の先生方が招かれており、労働行政全般にわたる分野で「規制緩和」の問題点などが話題に上がっていました。畑中さんの人脈の広さを物語るエピソードです。
多くの後輩労働基準行政マンが畑中さんのお人柄やリーダーシップを慕っておられました。
畑中さんはご自分の研究所(畑中労働経済研究所)を立ち上げられ、毎年労働経済セミナーを主催され、長年にわたって、雑誌を発行されました。京都市内の同研究所を訪ねたことがありますが、その研究所を拠点に、個別労働紛争のあっせん代理業務や就業規則・労使協定に関する相談やアドバイス、安全衛生教育の実施など幅広い活動を展開されました。
畑中さんは、労働行政の規制緩和の流れに身を張って抗し、京都労働行政のご意見番として大きな仕事をされました。多くの有力会員を労ペン関西に紹介していだいたことにも感謝いたします。
ご冥福を心からお祈りします。
監督官の矜持を持ち、部下全員に慕われた人
玉泉孝次(第4代監査支部代表 現支部顧問・近畿労働安全研究所所長)
畑中さんがお亡くなりになりました。
私にとっては行政の先輩であり、また、独立後も顧問先を紹介していただいた恩人でもあります。
畑中さんは、40歳を過ぎてから一念発起全国異動に手を上げられ、大阪労働基準局から京都労働基準局監督課監察監督官に来られました。当時私は京都市内署の平監督官でした。その後、山口、新潟、本省、島根労働基準局長、大阪労働基準局次長、本省労働基準局監督課主任中央労働基準監察監督官を歴任され、京都労働基準局長で退職されました。島根労働基準局長時代の同局の監督課長が村木厚子さん(後の厚生労働事務次官)です。
退職後衆議院選挙に出馬されましたが落選。その後は、畑中労働経済研究所を設立され、季刊誌を発行する傍ら、毎年労働経済セミナーを主催されるほか、多数の企業の労務・安全衛生相談を引き受けられていました。
氏は労働基準監督官としての矜持を持つよう常々語っておられましたが、とりわけ生前の武勇伝で有名なのが、本省労働基準局監督課主任中央労働基準監察監督官時代の大手ゼネコンの強制捜査の指揮です。東京御徒町駅付近での陥没事故の安衛法違反疑義事件で、東京労働局管下の労働基準監督署の監督官数十人を総動員して強制捜査するにあたって、被疑者が大手ゼネコンであったことから途中外野からの声で中止になったり情報が漏れたりしないよう極秘裏に監督官を集めて指揮され、本省幹部には前夜に報告し、各監督署長連中には当日の朝に通知し、当日早朝監督官を集めて強制捜査(捜索差押)の指揮を行った事案です。(法人と作業所長が安衛法違反で罰金。)
まさに、労働基準監督官としての面目躍如の活躍でした。気概を持った人であり、一緒に仕事をした部下全員に慕われた人でした。
ご冥福をお祈りします。
在りし日の畑中さん
第25回労働経済トップセミナー

