私の主張

"飲んべえ山ちゃん"を悼む ――山田行雄さんを偲んで――

2023/04/24

 
会員馬場義雄

"飲んべえ山ちゃん"が逝去された。山田行雄さんのことである。

会員番号153だから、労ペン創生期の頃に加入された。今や会員の100番台は12人であり、正に古参会員であった。我々飲み助仲間からは、親しみを込めて"飲べえ山ちゃん"と呼んでいた。

私と山田さんは、労ペン加入以前からの永い付き合いであり、数々のエピソードや思い出も多い。私が産別労働組合の本部(当時電機労連、現在電機連合)へプロパーとして入職した頃から、情報宣伝(機関紙・誌)、総務担当だったこともあり、マスコミの窓口で、「労働省記者クラブ」や「三田クラブ」(山田さんも幹事などであった)で接触やレクチャーでご一緒いただいた。当時山ちゃんの「労働記者」としての才覚は、記者クラブレクチャーでの核心に触れた質問も多々あったが、それよりも、その後のウラ取りの「オフレコ」情報の収集に長けていたと思う。

その背景には、あの人なっこい人柄で、主要労組の幹部やプロパー等との人的交流にも長けていたこと。その場にはいつも酒席が伴っていたことも多かった。心許せる雑談の中に「オフレコ」情報も多く、情報通の山ちゃんの話も含め、お互いにメリットがあったのではないか?労働4団体時代、労働戦線統一の激動期や春闘時の労使双方のオフレコ話や、特に人事に関わる情報には、抜きんでていた。的確な情報は情勢判断に大きく役立ったと思う。私もその恩恵を受けた一人である。

出入り禁止の脱線も・・・

たまには、脱線もあった。私が産別本部の職務を辞した後のことだが、山ちゃんが電機産別本部への出入りを禁止されたことがあった。(後で聞いた話だが、重要なオフレコ情報等が広流された、として、幹部の逆鱗に触れたらしい)。新しいトップ幹部に交代した頃のことだが、お互いの人心掌握が上手く行っていなかったらしい。それも、5ヵ月後位には解除になった。

オールドリーダーの面々には、良く気に入れられ懇親の機会も多かった。労組リーダーのマスメディアへの関わりも年々変わりつつある。

昨年、以前トップリー^ダーだった二人の方と会う機会があり、「あの飲んべえ山ちゃん、最近見かけないけどどうしているの?」と聞かれた。「体調を崩して会合等でも会う機会が少なくなった」と話すと、「飲みながら懇親した頃懐かしいなぁ~」と残念がっていた。正に山ちゃんは多くのリーダーの心に残っている人柄だったな、と今更ながら感じたものである。

山ちゃんの酒は、高価な店より居酒屋(赤ちょうち)を好んでいた。タバコを燻らし日本酒を美味そうに飲むのである。3年前位から体調を崩され、労ペンの会合等にも姿を時折しか見受けなくなっていた。好きなタバコも酒も止められ、笑顔も少なくなった姿を見るにつけ、あの「飲んべえ山ちゃん」が・・・・と心痛む思いであった。

「労働記者」としての矜持で

私が労ペン会員になった時、そして、はからずも幹事になった時は「馬場ちゃん良かったな、飲みに行こ・・・」と喜んでくれたものである。

労ペンの会合や、レクチャー会の後には、山ちゃんの声掛けでよく飲み仲間の輪が出来た。それだけ人を引き付ける魅力がある方であった。声掛けを受けた御仁も多かったと思う。

いつも肩書は「労働記者」であり、その専門性に「矜持」(誇り)を持たれていたことに敬意である。

その山ちゃんはもう居ない。黄泉の国で「やぁ、一杯やろうよ」と先輩諸氏に声掛けているのかも知れない。

「山ちゃん」(山田行雄さん)永らくのお付き合いありがとう。お世話になりました。
安らかにお眠りください。献杯・・・・・・合掌。

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