私の主張

会員・逢見直人さんが尽力された、リトアニアの本「シベリアの俳句」がこのほど発刊されました!

2022/02/28

 

「シベリアの俳句」(文、ユルガ・ヴィレ、絵、リナ板垣、翻訳・木村文、花伝社)を紹介いたします。

会員・逢見直人

この本は、私が2019年6月にリトアニアを訪れた際に、当時、駐リトアニア日本大使をされていた山崎史郎氏から紹介され、「日本語版を出版したい」との思いが私に託された。その時は軽い気持ちで引き受けてみたが、出版業界の事情に疎い私には、どことどう話していいか皆目見当もつかなかった。学生時代の友人などのツテをたどって大手と言われる複数の出版社に打診してみたが、「採算がとれない」という理由で断られてしまった。自費出版ならば引き受けるというところもあったが提示された費用は私の想像を大きく超えるものであった。あきらめかけていた時に、翻訳を引き受けていただいた木村文さんから紹介されたのが花伝社で、そこで出版を引き受けていただけることになった。それまでに2年を費やして、ようやく出版に漕ぎつけることができた。

リトアニアはバルト三国の一番南に位置し、南はポーランド、東はベラルーシと国境を接している。リトアニアは1940年にソ連に占領され、41年から44年の間はナチス・ドイツに占領され、44年からはソ連に再併合され、1989年のソ連崩壊によって、ようやく独立を取り戻した。リトアニア人の多くは、ソ連という支配者を受け入れなかったので、ソ連からは敵と見なされていた。敵ならば排除すべきということで、人々は家を奪われ、追放された。移送された先は、極寒のシベリアの強制収容所であった。

この本は、一人の少年アルギスが1941年6月にシべリアの強制収容所に入れられ、そこから「孤児列車」に乗って故郷に帰るまでを描いたものである。アルギスは、大切な相棒マルティナス(がちょう)を奪われ、窮屈な列車で運ばれ、父親と別れ、延々と道のないところを歩かされ、バラック小屋に住むことになる。そんな中で彼の心の支えになったのが、大好きな叔母のペトロレネであった。ペトロレネは数少ない持ち物に日本の俳句の本を選ぶほどの日本好きで、日本語を読むことができた。シベリアで日本人の強制収容所を見つけると、アルギスはおばさんと俳句を書いた紙を投げ入れ、収容所から聞こえる「太鼓の音」に耳を澄ませる。日本兵の捕虜は厳しく管理されていたので直接的な交流はなかったが、叔母はこどもたちに日本の詩や折り紙を教えた。過酷な環境の中で、遠くはなれた日本の文化が、アルギスの心の支えになり、収容所での生活に耐え切ることができた。

リトアニアは、ナチスの迫害を受けたユダヤ人に「6000人の命のビザ」を発給した杉原千畝氏が領事代理を勤めたところであり、当時の領事館の建物は杉原記念館として保存されている。日本とリトアニアは大国ロシアの東と西に位置し、背景は違うものの、シベリアの強制収容所に入れられ、過酷な生活を強いられたという共通点もある。
シベリアという極寒の地で、乏しい食料での強制収容所生活は、常に「死」と隣り合わせの状況であったと推察する。子どもの視点で淡々とした筆致で描かれているので、「収容所で自分の意思で死亡した」とする父の死の知らせも淡々と描かれている。それがかえって読者の心を揺さぶる。

作者の祖父ローマス(アルギスの父)は収容所で射殺された。祖母のウルシュレは、スキを見てシベリアから脱走し、子どもたちの元へと向かった。しかし、リトアニアで収監され、拷問の後、収容所へ送り返された。著者は、ソ連が崩壊してリトアニアが独立を取り戻した後に、ポツリポツリと父が語る流刑地での記憶をノートに書き留めた。祖母は著者たちと暮らすようになると、著者は祖母の白髪に櫛を通しながらシベリアで出会ったすばらしい人たちの話をきいた。祖母はなんだか日本語のような歌を歌うこともあった。これらを基にユルガ・ヴィレが文を書き、日本での留学経験のあるリナ板垣がイラストを描いた。本作は二人のデビュー作で、この作品で国内外の賞を多数受賞している。翻訳はリトアニア留学経験のあるお茶の水女子大学大学院博士課程の木村文さんに引き受けていただいた。

「シベリアの俳句」


「シベリアの俳句」を読んで感じたこと

代表代理・森下一乗

会員、逢見直人氏から、「シベリアの俳句」を贈呈いただきました。一気に読みましたので、感想を書いてみました。

まず、リトアニアの子供の戦争時の体験である。第2次大戦には、ドイツ、ソ連の勢力圏が変化し、小国は、翻弄された。まずこの本を読んだ感想であるが、戦争に立ち向かった男の子の絵と、文章による戦争体験の児童書であると感じた。

記憶に新しいのは、第2次大戦中の「命のビザ」を出した、杉原千畝氏の話である。本国外務省の指示に反してビザを発行した行為は、帰国後批判されたようで、その後外務省を退官している。詳細は不明であるが、外務省のOB会名簿には在籍したようなので、一切の関係を拒否されたということではなく、通常の関係は継続されたということのようである。

そこで、以下、感想を箇条書きする。

  1. 戦争の経験を次の子供たちに伝えるという目的であれば、十分にその役を果たせるであろう。ドイツの侵攻、その後ソ連の占領で、リトアニアの家族はシベリア送りという過酷な運命を経験している。そのことを、恨むでなく、淡々と記憶をたどって、説明していることが、反戦の訴えを如実に表現している。出来る事なら、戦時中の大きな出来事(ドイツによる占領、ドイツが負けて、ソ連による占領)、その後行われたシベリアへの難民の送り込み、その後の子供列車による帰国実施について、簡単な説明をすると、わかりやすいかもしれない。
  2. この地区の地図が載っていると、理解が進むかもしれない。シベリアの遠いこと、寒いこと、生活のしにくさが理解できるであろう。ヨーロッパは広い、歴史も重ねて、国の形、勢力は変化し続けている。子供たちの強制的な移動が、どれほど遠いのかという点が理解されよう。
  3. 絵が素晴らしい。これだけの絵を描くことが大変だったであろう。しかし、絵があるからこそ、その寒さ、シラミ、蚊の被害、蛇の存在による苦労の数々、ひもじいことの実態、が描けている。この本は、困難な生活を説明するのに、文章でなく、絵をもって説明している。
  4. 日本で印刷されたことは、リトアニアに縁が深いことが理由であろう。一つは、杉原千畝氏の存在である。戦時中、ナチスドイツの同盟国である日本の大使館に、ユダヤ人にビザを出すことは、本省の指示に違反することであった。違反してまで、実行できる勇気のある人がどれだけいるであろうか。それこそ、命を守ることの大切さを考えていなければ、その行為を実施することは至難の業であろう。そのリトアニアと、日本がお互いに理解しあうことは、戦争の悲劇を思い出し、平和の実現に努力を傾ける1歩につながるのであろう。
  5. シベリアの俳句、日本人の抑留者のこと、日本人の俳句、太鼓の音楽による接点は大切である。しかし、実話として、現地でのリトアニア人と、日本人の交流は、収容所の住民としては困難なものであったであろう。この本が創作であるとすれば、書きようもあるが。
  6. 昔、シベリヤに抑留された方に話を聞いたが、いつ作業現場で凍死するかわからず、命の危険が常にあったという。特に、体の大きな人は、多くの食料が必要で、早く亡くなってしまうこと、食事の量が、死んだ方が多くなると一人当たりの量が増えていくのが悲しかったこと、を述懐されてショックを受けたことが思い出される。
  7. 戰爭で、世界中の子供たちが苦難の道を歩んでいる。北朝鮮からの引揚者である私は、体験を次の世代に伝えていく使命がある。この本も、子供たちに、戦争体験を知らせる良い児童書であると考える。

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