関西支部発

「8時間労働制」の実施発祥の地 労働遺産認定申請を体験して

2023/07/18

 
労働遺産認定PTメンバー 森田定和
(支部通信第39号=23年6月号から転載)

1.若干の経過

  1. 21年1月12日の日本労働ペンクラブの総会で当クラブ創立40周年を機に開始された労働遺産認定事業の目的は、会員各位が「労働遺産を発掘し、その意義と価値を認識し継承、保全することの重要性を広く社会に発信し、働く現場の歴史を後世に伝えること」(要綱)にあります。
  2. 22年の総会に向けて、労ペン認定第1号の提案については、運営初年度としての難しさや時間的な制約等を勘案し、労働遺産認定プロジェクトチーム(PT)が設置(2年間)され、当支部からは、谷合さんと私がメンバーでした。申請のあった労働遺産候補の認定については、別に幹事会の諮問委員会(常設)として労働遺産認定委員会があります。谷合さんは認定委員にも指名され見事に重責を果たされました。
  3. 関西チーム(谷合リーダー)が申請した「川崎・三菱大争議など大正時代の関西労働運動の記録」(『支部通信』第35号P6-7参照)では、事務局担当の熊谷謙一さんに大変お世話になりました。他チームが申請した「日本の近代的労働運動発祥の地に関する記念碑と遺構」と共に22年1月13日の総会で認定されました。

2.2022年度労働遺産の申請候補を探す日々

  1. 事業実施2年目の22年は、事業の定着・発展に向け、労働遺産のイメージを内外に正しく反映し認識を共有すること、名実ともに労ペンの認定労働遺産の価値を高める活動が重要となり、その上で会員が申請活動をし易い環境づくりなどに努める基本方針の下、3月10日のPT会議で「8時間労働制関係」は私(谷合委員サポート)、「大原孫三郎関係」は熊谷委員がリーダーを務めることとなりました。
  2. 労働遺産PTの「8時間労働制の発祥地に関する労働遺産」ワーキングチーム(WT)メンバーは、友井川紘一(元川崎重工労組中央執行委員長)、鳥居徹夫、植木隆司の各委員、アドバイザーに谷合佳代子さん、申請書と資料の案作成は私の担当でした。
  3. 8時間労働制の発祥地に関する労働遺産は「労使共同の遺産」の位置づけで着手。申請候補の事前調査に関し、戦前の株式会社川崎造船所(現川崎重工業株式会社、以下「川崎造船所」)の労働組合の闘いの歴史について神戸市の現川崎重工労働組合、松方幸次郎初代社長の業績等について会社に友井川委員が照会されましたが、組合側、経営側いずれにも当事者の労使交渉に関する労働遺産の対象物は「ない」ことが判明しました。
  4. 他方、8時間労働制の労使交渉史、松方社長と労働側リーダーの写真掲載の『火輪の海(下巻)』(1990年刊)を刊行された神戸新聞社(川崎造船創業者の川崎正蔵により発足)への照会は私が担当。同社にご尽力頂きましたが32年以上も前のこと故か候補に辿りつけませんでした。
  5. 労働遺産の申請候補に「八時間労働発祥之地」の記念碑を内定する一方、労使交渉に関する図書、即ち『兵庫県労働運動史』『川鉄労働運動史』『火輪の海(下巻)』、『川崎重工業40年史』(昭和11年刊)を手分けして調べ、組合旗、腕章、交渉記録など労働遺産申請候補を探す日々が続きました。
    また、『労働者の生活と「サボタージュ」』(津金澤聰廣,土屋礼子編(大正・昭和の風俗批評と社会探訪―村嶋帰之著作選集第3巻)柏書房/2004.11)は、『生活不安』(1919年)『サボタージュ』(1920年)など収録)からヒントを得ようと谷合さんの助言を受け調べましたが、申請候補はたった一つを除いては、発見できませんでした。

3.怠業中松方社長對職工側委員會見録

  1. 労使交渉の生の資料が見つからなかったのは、神戸とその周辺地域は1945年(昭和20)1月3日から終戦までの約8カ月間に大小合わせて128回の空襲を受け、神戸市全土が壊滅したことによるものと考えられます。
  2. 唯一存在が確認できたのは、神戸大学社会科学系図書館と大阪公立大学杉本図書館に所蔵されている『怠業中松方社長對職工側委員會見録並営業時間及賃銀改正ニ關スル顛末』川崎造船所[編] [1919] でした。(縦18.8、横12.8、厚0.5㎝)
    前者は申請すれば閲覧可能で、内容はネットで全文公開。後者は書庫にあり、学内者には貸し出し可能。
  3. この冊子は、1919(大正8)年に発生した川崎造船所のサボタージュ(怠業)戦術による労働争議において、松方社長がわが国で先導的な8時間労働制を提示し、解決したことについての会見録であり、わが国労働史上重要な資料です。
    冊子が残っていた事実は、本や資料に対する知識や経験を積み重ねた図書館司書の存在が大きく、司書を置かない近年の国内傾向に危惧を抱いてしまいます。

4.申請の趣旨

  1. 1907(明治40)年創業時から旭硝子株式会社(現AGC株式会社)の尼崎工場では、手吹式ガラス槽窯の吹部などにおいて国内他産業に先駆けて8時間3交替制が実施されていた(旭硝子社史)ように、窯業など「熱火の前で長時間労働ムリ」とか、製綿などで「仕事の不振、自衛上実施」という特殊事情で、8時間労働制は兵庫県下阪神地域の20工場で実施されていました。(村島帰之著『労働者の生活と「サボタージュ」』p432、p437)
  2. 1916(大正5)年9月1日に施行された工場法では、労働基準法にいう労働時間と休憩時間を合わせて就業時間と定め、15歳以上の男子の労働時間は基準を設けていなかったため法定労働時間は存在せず、法定割増賃金率も存在しませんでした。存在したのは、当該労使間の所定労働時間でした。
  3. 当初は労働者の共済団体だった友愛会が次第に労働組合の色彩を強め、治安警察法の施行下にも拘わらず川崎、三菱の従業員が次々と加わった神戸連合会は、関西での友愛会の拠点となっていきました。リーダーのひとり賀川豊彦は、明治学院から神戸神学校を経てスラム街に住み込み伝道活動を続けていたなか、労働運動の旗手としても急速にクローズアップされていました。川崎造船所の松方社長は、労働運動の推移に神経をとがらせていました。(『火輪の海』下巻 p114)
  4. 1918(大正7)年7月以降米価が3倍に暴騰し全国で米騒動が発生するなど第一次世界大戦後の不況下の物価高騰などを背景に、19年9月川崎造船所の労働者16,700人は、労働条件(賃金、賞与、食堂、洗面所その他衛生設備)改善・向上を求めて労働組合運動に結集し11日間闘い、これに対し国際的な動向を認識していた松方社長は、嘆願書に労働時間短縮の項目は無かったが実質賃金の増額をもたらす8時間労働制導入を決断し、回答しました。この回答は、労働時間短縮による実質賃金増、人員整理の回避につながる松方社長の識見に拠るところ誠に大とは言え、その背景には、それ以前から兵庫県の地域で積み重ねられてきた8時間労働制実施の存在が考えられますが、何よりも日本の労働運動史において画期的であった川崎造船所の労働争議がありました。回答はその成果と言えます。
  5. 川崎造船所の8時間労働制の先導的実施は19年10月1日。この8時間労働制を導入した神戸市の川崎造船所の実践に対する世論の反響は大きく、この年に8時間制を採用した工場は、播磨造船所(現 株式会社IHI)などの造船、神戸製鋼所などの鉄鋼を中心に全国で214カ所に達しました (政府統計、兵庫労働基準局・(社)兵庫労働基準連合会「八時間労働発祥の地 記念碑」資料)。 47年に労働基準法が施行される28年も前のことでした。
  6. 19年の「就業時間短縮ノ状況」を特記した『大正8年工場監督年報』(農商務省)によれば、「大正8年中に突発せる現象中ここに特筆せるの要あるは同年8月以降(主として10月及び11月)におこれる就業時間短縮問題なり。」「〔阪神地方が〕先駆をなせし所以を探求するに⑴川崎造船所のごとき大工場に於いて率先実施したること」、「⑷国際的労働運動の勃発とその悪化を憂慮せしこと等種々錯綜せる事情が動機若は原因」とあります。(参考 横田隆著『工場法小史』p54)

20230718.jpg (写真は大阪公立大学所蔵の冊子(左)と保護箱)

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