関西支部発

水軍の教養と日本経済

2023/07/24

 
多摩大学名誉教授・竹村之宏(関西支部会員)
関西支部通信第39号(23年6月号)から転載

1.水軍の教養とは何か

鎌倉時代から戦国時代にかけて、瀬戸内海を中心に活動した水軍 (村上水軍が有名) は、中国などからは倭寇などと呼ばれ海賊扱いされたが、大変な教養集団であった。水軍は当時日本で大量に産出した砂金をもって中国に渡り、東シナあたりで書画骨董を大量に仕入れて帰った。

スペインの海賊は金を略奪して帰ったが、日本の水軍は金を渡し、書画と引き換えたのである。また、金と銅銀を交換した。水軍が活躍した中世の日本人は、金よりも銅銀の方を重視した。日本人は昔から、金銀や土地、権力よりも情報価値、技術やモノづくり、もののあわれを大切にしたが、水軍も同様であった。

水軍のルーツは九州の海岸地方にいた様々な海洋部族が瀬戸内海に入ったとされるが、彼らが祀った大三島神社は伊勢や出雲の次に位置する重要な神社で、水軍の精神的拠り所であった。水軍は伊勢神宮と八幡大社と三島大明神の三つの旗頭を立てて戦ったといわれる。

伊勢神宮は米作りの神であり、大三島神社は海神であり、八幡の神は武神である。つまり、水軍は米文化、鉄文化、海文化という日本文化の根本を支柱にしていたことになる。大三島神社には現在国宝級の鎧の80%が祀ってあり、源頼朝や義経、平重盛などの鎧が見られるという。

情報価値を重視した水軍たちが、その美意識を高めるために行ったものが連歌であった。数十名、数百名のグループが、長いときは五十日、百日に渡って連歌を創作したという。連歌は二人以上で短歌の上の句と下の句を交互に詠み合うものである。連歌で大切なことは、前の人が読んだ句とつながりがないものを詠んではいけないし、逆に前の人の句に引きずられてもいけない。常に発想の柔軟性が要求されるのである。

水軍は戦いに勝たねばならない。戦場で大切なことは、次々に変化する戦況に速く対応することである。一つの固定観念にとらわれて作戦を変化できないと敗れてしまう。連歌は戦場における柔軟な作戦や戦法の創出に役立つのである。そして、連歌によって、極限状態にあっても自分を失わない自立した精神と魂を養ったのである。

水軍の人々は数万首の連歌を残したが、注目されるのは恋の歌が多いことである。常に海という自然の厳しさに直面している水軍にとって、恋や愛の歌を詠むことはきわめて人間的な感情であったのだろう。まさに日本的精神風土を表現している。

連歌を教養とした水軍の伝統は、やがて明治時代に入ると海軍の創設 (江田島の海軍兵学校) となる。江田島と大三島神社は近い。作家の司馬遼太郎氏が「海軍は明治日本がつくった一つの文化である」と言ったのは高い水軍の教養が根底にあるからであろう。まさに、歌をつくることは日本人の教養であり、この根底が「大和ことば」ではないだろうか。海軍の歌に漢語が多いことが証明している。ただ、水軍の教養も昭和と共に失われていき、太平洋戦争の敗北につながることになるのは残念な結果である。

2. 水軍が生んだ卓越した商工業

水軍は瀬戸内海を拠点にして、西日本一帯の海上権を握っていた。600~700トン級の船を100隻以上持ち、東南アジア貿易を支配した。水軍の発達は日本の海外貿易の発達を意味していた。水軍の船は大変すぐれており、世界的にも認められていた。現在の造船王国日本の源流は水軍の造船技術にあったといってよい。 そして、水軍の日本刀は精巧であり、外国でも有名であった。

また、水軍の行動は日本の商業の発展、戦後の総合商社の発展につながっていく。日本は本質的には農耕民族であるが、騎馬型の商業がうまく融合した。この最大の要因は足利時代以降、人口が急速に増大し、個人の才覚がものをいう商業が発達したためである。大阪の「堺」はそうした人々の才覚によって生れたということができる。この活動がやがて、日本にしかないといわれる巨大総合商社を生んだということができる。巨大総合商社は日本に特有の存在であり、このこと自体が日本の経済システムの卓越性を物語っている。

3.水軍が生んだ教養

水軍は日本の新しい商社活動を生んだが、さらに重要なことは、水軍は経済面だけでなく、連歌を教養として人材を育成した点にある。軍隊組織の優劣は単に軍事面の優劣によって決まるのではない。軍隊を構成する個人教育も大切な要素である。水軍が特に重視したのが連歌で、一人前の連歌が出来ない者は指導者になれなかった。特に日本海軍の下士官の有能ぶりは際立っており、海軍は事実上下士官が動かしていたといわれる。また、海軍はマナー教育を重視したという。

以上のように、水軍から海軍までの軍隊教育が、戦争に勝つための直接的な技術論よりも人間性のレベルの向上に重点を置いたことは注目される。戦後は軍を否定するあまり、軍のマイナス面ばかりが強調された。例えば、単なる精神主義ではアメリカの物量に勝てるはずがないとか、高等教育を受けた将校ほど無能であったとか、日本軍は名人芸でアメリカ軍の機械に対抗しようとした、というような非難である。確かに昭和初期の指導者は柔軟な発想を失ってしまい、過去の成功体験に固執するので、一口で言えば、大正から昭和にかけて水軍の伝統が希薄になったためといえよう。

日本という国は太平洋戦争までは大きな戦争や外国の侵略もほとんどなかった。戦争がなければ武器は必要なく、戦略を考える必要もないわけである。そのため、日本は戦争に弱かった。663年の白村江の戦いでは、唐の水軍にあっさり敗れてしまう。鎌倉時代の元寇の当時、日本の矢は百メートルしか飛ばなかったが、元の矢は二百メートル飛んだ。また、元は大砲のような武器も持っていた。神風が吹かなかったらどうなっていたかわからない。これからの日本は水軍の伝統に立ち返り、知識偏重でもなく、真の教養ある国家に生まれかわらなければならない。

ところで、企業は何故教養を必要とするのか。企業は絶えず時代の変化に対応しなければならないからである。常に最先端の知識を学ばないと存続が危ぶまれるからである。今日のような情報時代においては知識や情報の耐用年数は短く、たゆまぬ学習を必要とする。この場合、企業が必要とする知識には個人学習では限界があるためである。そのため仕事に応用し、成果を上げるためには組織として問題に対応する必要があるためである。つまり、企業内教育は企業存立のために必要である。今日のように企業の社会的責任が大きくなると、利潤のみを追求する企業は存立しえない。社会に配慮し、優れた環境を提供し社会的認知を得なければならない。これまでの大きな会社、売上高が大きな会社、歴史のある会社というだけでは通用しない時代に入ったのである。

この存立理由を果たすためには個人に任せることは出来ない。一人ひとりが意識を持つと同時に、組織的な教育が必要である。そして変化への対応と理念の確立のためには単なる断片的な知識の習得ではなく、個人と組織の進化に貢献するものでなくてはならない。心理学によれば、遺伝によって授かったものを「生得的自我」と呼び、この自我を基本にして、学習と経験を積んでいく。これを「獲得的自我」という。しかし、獲得的自我はいつも良いものとは限らない。そのため、我々はなるべく成長を促進する体験を身につける必要がある。この差を診断するのが教養である。人に頼らず、自分の力で自分を変えていくことが重要である。

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