関西支部発

『雨ニモ負ケズ震災ニモ負ケズ。』

2025/04/28

 

現在、地球的規模の気候変動は、かつてない異常気象を引き起こし、毎年国内外を問わず、甚大な被害をもたらしています。その度、市民やマスコミの話題に上るのは、役所(行政)の対応です。

私は、38年間、大阪府内で一番小さな街の役所の現場で働いてきました。今、定年退職し、一市民となり、過去の自分を振り返りながら、今後、確実にやって来る大地震や風水害に立ち向かう、被災地での復旧・支援のあり方を探りたいと思います。

1995年1月17日早朝、淡路、神戸を中心に都市型震災としては、戦後、世界最悪の大地震が発生。6400人を超える市民が犠牲となりました。当時、私は32歳。役所に入ってちょうど10年目。朝、大阪でも地面が波打つような激しい揺れに襲われ、急いでテレビをつけると、神戸の各地に火の手が上がり、街全体が、まるで爆撃を受けたかのような惨状が目に飛び込んで来ました。瞬間、『早く、現地へ行かねば!』との思いがよぎり、早速、役所に出勤し、当時、役員をしていた労働組合の他の役員と相談。勤務する役所の理事者とも協議し、現地の情報収集行い、被災地にべースキャンプを置き、活動するため、『先遣隊』として一人リュックに救援物資や宿泊用テント・自分用の水・食料詰めこみ、震災発生から一週間後の神戸に入りました。大阪を出発するとき、たまたま、通信回線の復旧工事から一週間ぶりに帰阪した全電通(旧、電々公社労働組合。現NTT労組)の友人から当時、交通機関で、大阪から一番以西に行くには、阪神電車との情報もらい、あの阪神高速神戸線の橋脚が横倒しになっているすぐ側の『阪神電車甲子園口駅』に降り立ちました。

道中、電車内では、東京から、神戸に下宿している息子の安否を訪ね途先不安な女性に、あちら、こちらから最短ルートを案内する人々の声。人の温かさが染みました。甲子園口から、約4時間..。ひたすら、国道42号線沿いの『廃墟』のような神戸の街並みを横目に見ながら、三ノ宮の神戸市役所をめざし歩きました。

防災拠点の神戸市役所の1号館は、5階6階部分が押し潰され衝撃の凄さに恐怖しました。その後、市役所ボランティアセンターの受付を済ませ、早速緊急援助物資の仕訳作業を夜中過ぎまで行いました。作業の合間、神戸市役所の職員の本音を聞く。『ぞくぞくと届く救援物資を如何に必要とする市民のもとへ配れるか?行政は、公平・平等を旨として、全員分そろうまで配れない。賞味期限のある物資配送は、時間との勝負。矛盾を抱えつつ作業をこなしている』と。

翌日は、自ら、被災現地の民間ボランティアの活動状況を視察するため神戸YMCAのボランティアセンターを訪ねました。被災地の惨状を報道などで見て全国各地から駆けつけたボランティアが、『仕事』にあぶれ、センターに大挙、待機状態。ここでは、ニーズとボランティアのマッチングやコーディネートの元となる救援要請情報が届いていませんでした。これら、被災自治体現場の窮状や、ボランティアを受け入れる側の準備(受容力)の不足など被災現地の課題を集約し、逐次、私の所属する組合書記局と市役所秘書課(市長とのホットライン)へ伝達し、被災現地の自治体労組の紹介でたどり着いたのが、発災直後に芦屋市内にある学習塾の塾長と塾に通う高校生・OBで結成された『芦屋市民・学生救援隊』でした。(*組合とほぼ同時に私の役所も芦屋市からの避難所運営支援の要請受け職員派遣することに。)

初めて出会った彼・彼女等の印象は『文化祭』前夜のような活気でした。『隊員』の多くは、高校生。「地震が起きる直前までなーんも考えんプー太郎やった。」とリーダーの彼は言います。彼らも皆、被災者で、中には目の前で倒壊していくマンションの下敷きになって行く母親を目の当たりにした子もいました。『何が彼らを救援に走らせたのか?』約一ヶ月間、彼等の『基地』である学習塾の教室で、打ち続く余震に怯えながら、全国から救援隊に届いた救援物資に埋もれながら寝食を共にしてきました。

先ず、真っ先に手がけたのは、神戸・芦屋の惨状を目にし、ぞくぞくと駆けつけるボランティアの方々に行政が把握困難な公園や、在宅での避難を続ける被災者への救援物資の配送や困り事を聞きとる 『実態調査』を担って頂きました。

集約された情報をもとに具体の救援を行うと言うものでした。先の先遣で見て来たことが活かされました。市内各地に散らばったボランティアの方々には持ち帰った調査表をもとにヒアリングし、詳しく状況を聞き取りました。皆、一様に、「被災地の現状を目の当たりにし、『お聞きした情報は、必ず届け、助けに来ます』と告げ活動できたことがうれしい!」と。

救援物資の配送については、神戸・芦屋市内は、災害規制渋滞により、通常、30分で行ける芦屋・三ノ宮間も約4時間を要し、困難を極めましたが、私の組合が所有する軽トラックに緊急車両指定を受け、被災地へ投入、また、瓦礫で路地が塞がる場所では、組合員所有のバイクが活躍してくれました。これら全ての段取りは、事前に私の勤務する自治体の理事者と交わした協議による組合と行政の連携によりなったものでした。

時を同じくして、公務員の『ボランティア休暇』が制度化され、私の役所もいち早く導入し、これを活用し、多くの組合員が被災地で大いに活躍してくれました。ボランティアに参加した組合員からは、後日、『自分の娘・息子のような年頃の『隊員』に指図を受け気持ちよく活動が出来た。』、『若い力に感動した。』など、行政と市民との協働の可能性を実感して貰いました。

ここで、『被災地ボランティアあるある』を一つ。被災地のボランティアは、どうしても、土日など休日に集中し、また、日帰りを余儀なくされ、現地で3日も活動していると、いつしか現場リーダーになっている。一ヶ月も滞在する私は、『救援隊』の『副隊長』に祭り上げられました。

話を戻し、支援の中で、気づかされた出来事を一つ。

『救援隊』は、直接的な支援だけではなく、市内の避難所間のネットワークをつくる間接支援も行いました。芦屋市内で一番大きな避難所となっていた小学校での炊き出しで、そのリーダーを務められていたのが大阪西成の釜ヶ崎地区から被災地支援に駆けつけられた日雇い労働者の男性でした。彼の釜ヶ崎での炊き出し経験が、1000人近い市民の胃袋を充たすことに。

そして、震災発生から一ヶ月。6434人もの命が奪われ、亡骸を埋葬することも叶わぬ中で、被災地の市民と現地で活動を続けてきたボランティアが共に、復興への第一歩を踏み出すため、その悲しみを力に変え、被災地の市民自身が、動き出す、『きっかけ』(イベント)ができないか?と言う議論になりました。

市内の県立芦屋高校グラウンドを会場に『復興祭in芦屋』を被災地の市民とボランティアの手で企画・開催しました。『助ける側と助けられる側』と言う関係性を越え、お互いに響き合う関係を築く機会となりました。私や、支援活動に参加した組合員・職員の貴重な体験が、その後、各地への被災地支援や、自らの街の自治力(外からの救援を受ける受容力)の向上に役立ったことは言うまでもありません。

自治体に対しては、災害発生時の初動の『不味さ』や遅々として進まぬライフラインの復旧などが批判・指摘の的になります。

しかし、そこで、不眠不休で働く自治体職員も、また、被災した市民の一人であり、自分の家族の安否確認もままならぬ中で、非常召集され懸命に働いています。市民と行政(事業者含む)は、対立関係ではなく、相互理解と双方をつなぐパイプ役(奇しくも阪神淡路大震災で私が担ったような役割)があれば、より良い力が発揮され、『お任せ』ではない市民と行政の対話と協働による新しい自治が生まれることを伝えたい。

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