関西支部発

自然崇拝と大和ことば

2022/07/11

 
竹村之宏・多摩大学名誉教授

1.虫の声を左脳で聞く日本人

人間の脳は左右に二つに分かれているという。左脳は言語や知能を司り、右脳は純音楽のような音や非論理的なイメージや経験を司る。

これは大脳生理学のイロハである。昔から電話は左脳で聞いた方がよく聞こえるといわれている。

ところが、昭和40年代から50年代にかけての研究だが、角田忠信博士(当時は東京医科歯科大学教授)が意外な事実を発見した。それは、欧米人では言語は日本人と同じ左脳(言語脳)に入るが、虫の声や動物の鳴き声などは雑音として右脳(音楽脳)に入るという事実である。

つまり欧米人にとって虫の声は単なる雑音であるが、日本人には虫の声は左脳に入り、人間と同じように、そこに虫の気持ちを感じることが出来るというのである。

角田博士は、この事実が遺伝的なものか、後天的なものかを研究するため、アメリカで生まれ、初めから英語を話す日系二世や三世を調べたところ、彼らは欧米人と同じ反応を示したという。

一方、欧米人でありながら、日本で生まれ、日本で育った人々を調べたところ、彼らは日本人と同じ反応を示したという。これらによって博士は、人は10歳以下の子供時代にどのような言語で育ったかによって、大脳の働きに相違が生まれるということを確信した。

アフリカのサバンナに生きる草食動物は、誕生するとすぐに立ち上がって歩行を始め親に従う。これは、ぐずぐずしていると肉食動物の餌食になってしまうためである。つまり草食動物は親の体内にいる時から、生存のための知識と知恵を本能として身につけ、誕生と同時にそれが活かされるのである。肉食動物も基本的には同じである。ところが、人間は生まれたときは何も出来ずその後数年間は親の庇護を必要とする。人間の脳の大部分は白紙の状態で生まれてくるのであり、生まれた後の環境によって色や形が印刷されていく。これが「刷り込み」といわれるものである。

人間の脳は約150億個の細胞を持っているといわれるが、これだけでは知能は発達しない。脳細胞と脳細胞の間に神経繊維が伸びて、配線が行われなければならない。脳細胞がハードウェアとすれば、配線はソフトウェアである。
コンピューターの世界はハードだけでは単なる機械の箱に過ぎず、ソフトがあって初めて機能する。これと同様に、大脳も配線があって初めて機能する。この配線を行うのが学習である。したがって、人間の大脳の働きは、生まれた後の環境と学習によって決定される。とくに、3歳、遅くとも10歳位までの間に環境に適応し、一人前の人間として生きていくための知恵や情操教育を受けなかった場合は、まともな配線が行われず、大脳の働きが止まってしまう。反対に、良い環境の中で親の愛情と教育をしっかり受ければ、知能、人間性ともに優れた人間に成長する可能性が高い。人間が「学習する動物」であると言われるのはこのためである。
角田博士は実験を繰り返すうちに、日本人は虫の声、鳥の鳴き声、動物の声はもちろんのこと、小川のせせらぎ、風の音など、自然が出す音のほとんどが左脳に入ってくることを発見した。

2.自然崇拝と豊かな精神

それではなぜ日本人は虫の声や自然界の音を左脳で処理する大脳構造が生まれたのであろうか。中国人や韓国人、インド人、アラブ人は欧米人と同じ大脳構造をもつといわれるから、日本人は世界の大部分の人々とは違う環境に育ったと考える他はない。
その環境とは豊かな自然ではないだろうか。日本の国土は約70%が照葉樹林帯とブナ林帯で覆われている。光沢がある硬くて広い葉の樹林である。この両樹林帯と日本列島を取り巻く海流がもたらす天候や四季の影響を受けて、日本人は色彩的にも音感的にも、また皮膚感覚の面でも繊細でこまやかな感覚を身につけてきた。このように、豊かな自然の下で育った日本人は、次のような思考をもつに至ったということができる。

まず、宇宙の本質は混沌(カオス)であるという発想である。自然は絶えず変化する。その変化は人間にとって恵みをもたらすこともあれば、大きな災厄をもたらすこともある。自然の大きな力の前には人間はなすすべもない。そのため、人間は自然をありのままに受け入れることが大事だ。自然を人間の手で秩序立てることはしない方がよい。同時に、人間の心の持ち方次第で、自然への対応が変わってくる。

この発想は「自然との共生観」につながる。つまり、自然の流れに従って生きるということである。日本人の生活を支える米作りは、自然と共生しなければ生きられない日本人の精神が集約されている。こうした配慮で出来た米は日本人にとっては最高の恵みであり崇高の対象となる。米には自然という神が宿っていると考える。

三番目の発想は「共同体原理」である。縄文後期から始まった水田耕作は自然村という村を形成した。村の人々は共通の生業である農耕を効率よく営むために協力し合った。はじめは農耕のための協力であったが、やがて生活全般の相互協力へと発展した。

共同体は有機体であり、機械と違って生きているものである。

そのため、絶えず細やかな愛情を与えなければならない。共同体の成長と進化には長い時間が必要である。日本人にとって時間とは生物的なサイクルであり、連鎖しているものだ。生物的な時間の中で共に生きるためには争いや摩擦があってはならない。そのため、日本人は平和や安定を好む。決定的な勝者や敗者を出さないよう、自律的な調整が働く。

四番目には「情報価値の重視」である。自然と一体となることに最高の価値を置いた日本人は、金銀や財宝、権力といった世俗的な価値より、美的センスを大事にする情報価値を重視した。つまり、仕事そのものや技術、モノづくりを尊ぶ日本人の価値観を大切にした。そのため、日本人は仕事や職人を大事にしてきた。
職人の伝統は仕事によって人格を磨くという発想につながる。仕事は日本人にとって人間形成のための道具である。情報価値の重視はまた、日本人を一つの民族として融合・統一した要因にもなった。

約一万年続いた縄文時代の昔から、各部族間には何らかの交流があったと思われる。その交流はおそらく、各部族間をわたり歩く旅芸人のような人々にもたらされたのではないだろうか。諸国を歩いた旅芸人は各地に情報をもたらした。この情報によって、日本人としての統一された民族意識や精神風土が形成されていったのであろう。

3.大和ことばの高い情報エネルギー

以上みるように、日本人は自然を宇宙の基本としてとらえ、自然の変化と混沌の中から多様な生命が生まれると考えた。つまり、あるがままを尊ぶ発想である。この発想は、すべてを論理の枠組みで捉え、整然たるシステムを構築しなければ気がすまない欧米人の発想とは相容れない。

このような日本人の多様で、ありのままを尊ぶ発想によって、日本人は虫の声や自然の音を左脳に入れて、人間の声と同じように心や感情のある声として聞くことが出来るようになったと考えられる。そして、自然界の声を言葉にして、自然と一体となるために生み出されたのが日本語、つまり大和ことばではないだろうか。大和ことばは言葉の情報エネルギーの源泉そのものである。

関西支部通信第36号(2022年6月発行)から転載


竹村先生の著書紹介

  • 『近代日本を作った50人に学ぶ-リーダーシップと突破力-』(2015年5月)
  • 『続・近代日本を作った50人に学ぶ-リーダーシップと突破力-』(2019年12月)
  • 公益財団法人・日本生産性本部・生産性労働情報センターより出版されています。

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