特集

歩兵第18連隊60年の歴史に想いを寄せて

2024/02/19

 
会員・前田充康

私の故郷愛知県豊橋市(以下、「豊橋」)の市民の憩いの場である豊橋公園には、「歩兵第18連隊之址」と書かれた碑があります。
豊橋は、江戸時代、歌川広重の描いた東海道五十三次のひとつ吉田宿のあったところで、吉田藩の城下町でもあり、海のもの山のものに恵まれた気候温暖の地です。そうした風光明媚なのどかな土地柄でありますが、明治以降、日本が1945年(昭和20年)8月15日に敗戦となるまで、軍隊の駐屯地として軍都としての顔を持っていました。陸軍の歩兵第18連隊が最初に駐屯となり、その後、第15師団がおかれ、さらに組織改編を経て、予備士官学校、さらに海軍の飛行場など多くの軍関係施設が設けられていきました。
豊橋は1945年(昭和20年)6月の空襲で、焼野原になり、600人を超える市民が犠牲となりました。戦後、復興計画の中で、広大な軍関係施設跡は、大学の設立やベビーブームで生徒数の激増に対応するため新制の高等学校、中学校、小学校等の公共施設の増設が図られ、また、広大な軍事演習場は、大規模な農業地帯に変わっていきました。
豊橋公園は、吉田城址の跡地に作られていますが、歩兵第18連隊がおかれた駐屯地でもあります。碑文には、「大東亜戦争の緊迫するや19年2月南方に赴援し防守に努む。夏米軍の大挙来攻に会し衆寡敵せず相次でサイパン島及びグアム島に軍旗を奉焼して玉砕せり」と刻まれています。

歩兵第18連隊の歴史

歩兵第18連隊は、1884年(明治17年)名古屋で編成され、1886年(明治19年)まで に豊橋に移駐しました。その後、日清戦争【1894年(明治27年)~1895年(明治28年)】、日露戦争【1904年(明治37年)~1905年(明治38年)】、第1次満州警備【1921年(大正10年)~1923年(大正12年)】、山東出兵【1928年(昭和3年)~1929年(昭和4年)】、第2次満州警備【1934年(昭和9年)~1936年(昭和11年)】、日中戦争【1937年(昭和12年)~1941年(昭和16年)】と戦場に赴きました。そして、1941年(昭和16年)12月8日に始まった太平洋戦争においては、1942年(昭和17年)7月に歩兵第18連隊は関東軍の第29師団に編入され、それ以降、満州に駐屯いたしておりました。
しかるに、太平洋戦争の戦局が南方戦線で、急を告げるようになったことから、1944年(昭和19年)2月、歩兵第18連隊に南方戦線に動員下令が下りました。ここから、歩兵第18連隊にとって最大の苦難と悲劇に遭遇することとなりました。
歩兵第18連隊は、第29師団の将兵を満載した輸送船団(東山丸、安芸丸、崎戸丸)の中の崎戸丸に乗船して、釜山港を出発し南方戦線に向かっていました。2月29日夕刻、太平洋の沖大東島(ラサ島)南方約200キロメートルの地点で、歩兵第18連隊の将兵が乗る崎戸丸に、アメリカ軍の潜水艦「トラウト」の放った魚雷が命中し炎上、翌3月1日の真夜中を過ぎた頃、崎戸丸は大爆発を起こして沈没しました。歩兵第18連隊の被害は甚大で、門間連隊長も含め連隊の半数を超す約2,200名の将兵が海没・戦死しました。その後、護衛の駆逐艦に収容された歩兵第18連隊の将兵約1,800名が、サイパン島に上陸して、連隊は、新たに任命された大橋連隊長のもとに、再編成がなされ南方戦線の防守の任につきました。

その約2か月後の5月から6月にかけて歩兵第18連隊はグアム島に移駐を決行いたしました。その際、グアム移駐に間に合わなかった歩兵第18連隊の将兵は、米軍のサイパン上陸に遭遇し、激しく抗戦するも、全員戦死。7月に入り、グアム島に移った連隊主力は、米軍のグアム上陸地点で最後まで勇猛果敢に激しい防御戦を繰り広げるも、1944年(昭和19年)7月25日、大橋連隊長以下大部分の将兵が戦死し、歩兵第18連隊はついに玉砕となりました。ここに、歩兵第18連隊の60年にわたる激動の歴史に幕が降ろされました。

郷里の墓地

郷里におけるわが家の墓地は、太平洋に面した高台にありますが、そこには、主に太平洋戦争で戦死した村出身の方々の墓石が20数基並んでおります。墓石には、前面にお名前、横に応召後の戦歴、享年が記されて、背面には、墓石を建之された方々のお名前が刻まれております。墓石前面にお二方のお名前が刻まれていらっしゃる墓石も数基ございます。皆様すべて徴兵で応召され兵役につかれておられます。享年を拝見いたしますと23歳、24歳、25歳、27歳など多くは20歳代の方が圧倒的に多く、戦局が急を告げてからは、30歳代の方も応召され、30歳、32歳、35歳、38歳といらっしゃいます。そして、建之された方々は、未婚の20歳代の方々の墓石には、父、母の両親のお名前が多く刻まれており、30歳代の既婚者の方になりますと、妻や長男のお名前等が建之された方々のお名前として拝見されます。墓石に記された戦歴は、多く応召年月と各戦地で奮戦して戦死と淡々と記載されております。皆様の応召された部隊は、歩兵第18連隊に限らず、陸軍および海軍の各地の部隊となっています。戦死した場所も、中国、ビルマ、フィリピン、南方方面と多岐にわたっています。なお、歩兵第18連隊に応召されマリヤナ方面で玉砕された方の墓石には、「昭和9年1月20日現役兵として豊橋18連隊に入営。4月満州派遣部隊となり各地の警備に当たり12年1月除隊。12年8月支那事変により中支那方面を経て、マリヤナ島方面の激戦参加奮戦中、昭和19年7月18日戦死を遂ぐ。享年32歳」と刻まれております。

結び

私は、1947年(昭和22年)に愛知県豊橋市で生まれた戦後団塊世代です。食料難の時代や生徒数激増の中、すし詰め学級に学び、高度経済成長を体験し、バブル崩壊、その後の失われた10年ともいわれる時代、さらにコロナとの戦いも体験してきました。現在は1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の日から、すでに約80年になろうとしています。

そんな中、我が故郷の豊橋公園の中にある「歩兵第18連隊之址」の碑と村の墓地に立つ戦死者の墓石は、私の心の中で、静かに問いかけてまいります。
4,000人を超える多くの人達がいた場所は今も確かに公園としてあるも、ここを本拠地とする皆様は玉砕されて誰も帰って来られなかった。また、村から出征され無言の帰宅をされた皆様。

若くして、命を捧げてくれた皆様のお気持ち、また父、母、配偶者、子供等のお気持ちを想えば、まさに、察するに余りあります。どんなに悲しかったであろう、どんなに悔しかったであろう、もっと楽しく語り合いたかったであろう。しかし、すべてを受け入れて、命を捧げなければならなかった現実がそこにはありました。
戦争はいったん始まれば、個々人の想いを飛び越えた国家の論理で動き始めます。それを受け入れるか受け入れないかの個人としての想いとは関係なく、国家の論理で、個人に迫ってくる。そして、国家の論理で、行くところまで行かなくては、戦争は終わらない。戦争はけた違いの破壊と夥しい血を要求してくる。戦争は、パンドラの箱。一度開けたら、蓋をすることは至難の業であります。
日本は1941年(昭和16年)12月8日にアメリカの真珠湾への攻撃から太平洋戦争に突入しました。軍事的には、当初こそ勢いがあったが、翌1942年(昭和17年)のミッドウェイ海戦にて大敗北を喫したあと、劣勢に回り、じりじりとアメリカを主体とする連合国軍に追い詰められ、広島、長崎への原爆投下もされ、開戦からわずか3年8か月後の1945年(昭和20年)8月15日、日本全国焦土と化した中、敗戦となりました。そうした歴史の中の一コマとして、歩兵第18連隊の悲劇もあるわけであります。
私達の両親の世代は、敗戦してまさに焼け野原の中で、食料不足の飢餓と戦いながら私達を育てるために懸命に働き、私達も新生日本の国家体制の中で、成長していき、さらに現在では、次の世代にバトンが渡っていっております。
こうした日本が1945年(昭和20年)8月15日の敗戦から約80年が経った今こそ、私達は個人一人ひとりが原点に戻って、明治以来日本の歩んできた道のり、特に、太平洋戦争とは、日本国にとって、また、日本国民にとってどういうものであったのかを客観的に検証し、冷静にもう一度しっかりと見つめ直すことが今後日本の針路を見誤らないためにも極めて重要なことであると強く感じております。
最後に、歩兵第18連隊の辿った苦難は、筆舌に尽くしがたいものであります。あの時代において身を挺して戦死された皆様方へ、後世を生きる者のひとりとして、鎮魂の想いを込めて心から感謝と敬意を表したいと存じます。同時に、歩兵第18連隊の碑に込められた皆様の様々な想いは、現在においては、私達はもとより、世界中の人類すべての方々に平和の尊さを訴える心の叫びであり、熱いメッセージでもあると感じてやみません。合掌。

過去記事一覧

PAGE
TOP