2024/07/29
会員 柏木 勉
以下では、近代国民国家による戦争について考える。
国民国家はその成立以降、大規模殺戮戦争を繰り広げてきた。その極点は広島、長崎への原爆攻撃である。大量殺戮を可能にした物的条件は科学技術の発展であるが、それは資本主義と結びついている。資本は技術革新によってコストを低減し利潤を確保する。従って資本の技術革新にとっては科学技術の発展が必要である。資本の存続と科学技術の発展は結びついているのである。無論、それだけが国民国家間の大量殺戮を可能にしたのではない。国軍が創出され前線と銃後の区別もなくなり戦争は総力戦へと移行した。それは大量殺戮への道であった。国民国家の罪である。他方、資本は資本過剰圧力によって海外へと展開したが、そのためには政治的国民国家の支援が必要であった。帝国主義である。
そこで、戦争の考察にとって最も重要な問題は何かといえば、国民国家のナショナリズムであろう。国民国家とナショナリズムは一体である。ナショナリズムは国民=ネーションを均質な一体性として形成する。そして、他国を異質なものとして排撃し、敵として位置付け戦争を引き起こすのである。従って、ナショナリズムを無化・無力化しないかぎり近・現代の戦争を抑止することは出来ないのである。
「普遍的価値」は虚構、幻想
以上を整理すると、国民国家は資本=国家=ネーションという三位一体から成るわけである(柄谷行人)。これに対応する観念が自由=平等=友愛である。この三位一体は「普遍的価値」とされている。だが、それは虚構であり、幻想でしかない。なぜなら、現実の世界では、自由は資本の自由競争を意味するだけである。雇用労働者が自由に競争すれば賃金を下落させるだけである。平等も名目上は平等な国民とされるが、現実の世界の中心である企業内では実際の自由も平等もない。そして現実の経済過程では少数の個人や企業に富が集中し格差が拡大する。そこで、このような矛盾に対して国家がのりだしてくる。国家は、資本の自由競争を確保しつつも再分配による「平等」をはかるのである。そして国家に対し平等に向けた圧力を加えるのがネーションである。ネーションは友愛という同胞としての一体感に基づいており、解体された共同体を観念的に回復させるのである。そこから、資本主義の現実の矛盾が観念的に克服され、三位一体が成立する。
しかし、この三位一体は上記のように幻想である。にもかかわらず幻想が支配し、観念的に回復された共同体=国民国家の名のもとに戦争が引き起こされるのである。
近代以前には国民は存在せず、国民国家も存在しない。
だが、この三位一体はたかだか近代になってつくられたものでしかない。それを再認識し、徹底した相対化をはかることが重要である。国民国家はせいぜい二百数十年の歴史しかない。それは歴史的に形成され、歴史的に消滅するものでしかない。国民国家を形成する国民は、ナショナリズムによって同じ国民・同胞としての一体感を前提としているが、近代以前にはフランス人もドイツ人も米国人も日本人、中国人等々も存在しなかった。古代の昔からそれらが存在した等々の主張は、国民国家成立時につくられた虚構でしかない。フランス人、ドイツ人はフランス革命、ナポレオン戦争以降の産物である。イギリスの「伝統」は殆どが近世・近代以降に創られた。日本人は日清戦争以降に形成された。それ以前には、同じ同胞としての日本人という意識は一般大衆には存在しない。幕末以前の会津民衆と薩摩の民衆に同じ日本人などという意識は存在しない。国民観念など皆無だった。大衆は天皇の存在も知らなかった。明治政府は現人神の赤子としての一体感を創出するため多大の努力を強いられたのである。
領土についてみれば、中国大陸では清の時代まで「領土」という観念は存在しなかった。皇帝、官僚の頭にあったのは、中華文明の光があたる地域と光りがおよばない化外の地という観念である。それはグラデーションを描き国境線は存在しない。従って「領土」は存在しなかった(これはのちの列強との国境をめぐる争いの大きな要因となった)。ついでに述べれば「中華民族」は100年前に梁啓超がはじめて提起し、創られたものでしかない。習近平の「中華民族五千年の歴史」、「中華民族の偉大な復興」は虚偽・虚構である。
最後に紙面がないので若干唐突だが、我々がとるべきスタンスはと云えば、以下の通り。
反バイデン(反トランプ)、反岸田、反ネタニヤフ、反習近平、反プーチン、反金正恩。
祖国日本?普遍的価値?中華民族の偉大な復興?聖なるロシア?等々。全て虚構である。
たぶらかされてはいけない。

