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ナラン氏教育大臣就任の背景

2024/09/30

 

ナラン氏教育大臣就任の背景

1990年に民主化されて以来、9回目となるモンゴル国の国会議員選挙(大フラル=国民大会議、1院制・任期4年)が去る6月28日に行われ、2016年の労ペンクラブ訪蒙団(稲葉康生団長・27人)の通訳を務めたナランバヤル・プルプスレン氏(48)が人間党公認候補としてウランバートル第8区に立候補し当選を果たした(定員5人=第3位、得票53,249票)。
さらに7月10日、第1党の人民党と第2党の民主党、さらに第3党となった人間党による「大連立政権」が樹立され、同氏がオヨーンエルデネ首相(2021年に人民党党首と首相に就任)率いる新政権の教育大臣に就任した。
※人間党=正式にはモンゴルナショナル労働党、頭文字HUN(Human)から通称「人間党」と呼ばれたが、今回選挙で党の名称となった。

 ナラン氏(モンゴルでは非公式な場で日常的に通称も使用される)が新モンゴル小中高一貫学校校長在任中の2016年9月に労ペンクラブ訪蒙団がウランバートルを訪問、同氏と妻のトゥーラ・ディグリーさん(通称トルちゃん)が3日間にわたる訪問先の視察や会議の通訳を担当。ちょうど新年度と8年前の政権交代(民主党政権→人民党政権)が重なり、中央官庁の現場が混乱する中でナラン氏は面会交渉のやり直しに尽力。ナラン氏は自らの官僚経験を生かして通訳業務を超える大活躍で日程を整理、その結果訪蒙団一行の調査活動が順調に進行した。
訪蒙団はナラン氏が校長を務める新モンゴル小中高一貫学校を最初に見学したが、その際には日本式の教育方針が随所で取り入れられた教育現場を視察した団員から大きな感動を呼び、熱心な質問があい次いだ。

ナラン氏は2020年まで新モンゴル小中高一貫学校校長を勤めた後に政界に進出、同年6月国会議員選挙に出馬し次点惜敗、同年10月にウランバートル市議会議員選挙(日本では東京都議会にあたる)で当選。4年間首都の市議会議員活動に専念し、任期途中で今回の国会議員選挙に出馬して雪辱を果たした。

モンゴル国の人口は約350万人、面積は日本の約4倍で鉱業や牧畜業を主な産業とし、大相撲力士でお馴染みの日本人とよく似た外見の人々が暮らす「草原の国」であり「遊牧民の国」である。
1911年の辛亥革命を機に清朝の冊封体制から離脱、さらに1917年のロシア革命の余波を受け1924年にモンゴル人民共和国として独立を宣言。第2次大戦後はソ連と中国の両社会主義大国に挟まれたソ連側の衛星国として冷戦時代を生き抜いた。
日本とは古くは「元寇」、近代では「ノモンハン事件」の対戦国としての歴史を持つ。1972年に日蒙間の国交を樹立したが、社会主義陣営の小国モンゴルとは希薄な関係が続いた。

1989年11月のベルリンの壁崩壊に始まる一連のソ連解体への流れの中で、モンゴル人民共和国は社会主義を放棄。コメコン体制から離脱し3年間で市場経済へ移行する。政治的には複数政党制と自由選挙の実施を決め、1992年に国名を「モンゴル国」に改める新憲法を採択。停滞していた日蒙関係も自由化以降、あらゆる分野で急速な進展を遂げた。
民主化直後は社会や経済に混乱もあったが、この35年間で国家建設は堅調に進み、昨年の経済成長率は約7%、国民一人当たりのGDPは5,000USドルを超え、インフレに悩みながらもコロナ禍をなんとか乗り切った姿を見てとれる。近年首都への一極集中が進み、全人口の半数近い150人万人以上がウランバートル市に居住している。

新憲法下では民主的な選挙で政権選択が行われ、1992年に最初の国会議員選挙が実施された。以後4年ごとの国会議員選挙ではその都度政権交代が繰り返されたが、2016年からここ3回の選挙で与党である人民党が連続して過半数の議席を獲得。さらに今回の大連立政権誕生で政治的安定期を迎えたと言えよう。
この国の選挙制度は、ほぼ毎回4年ごとの選挙で変更される。今回は憲法を改正し、32年間(選挙8回)続いてきた国会議員の定数(76人)を126人と大幅に増員した。13の中選挙区で78人を選出、さらに全国比例代表選出48人。2票投票方式による、13中選挙区と全国拘束名簿式比例代表区との並立制を採用。党派別当選者数は別表のとおり。

【表1】モンゴル国会の新議席
(第9回選挙 2024.6.28投票  投票率69%)
選挙区 比例 合計
人民党 50 18 68
民主党 26 16 42
人間党 2 6 8
新国民連合 0 4 4
市民の勇気・緑の党 0 4 4
合計 78 48 126
【表2】比例代表の党派別得票率
人民党 35.0%
民主党 30.1%
人間党 10.4%
新国民連合 5.2%
市民の勇気・緑の党 5.0%
その他合計 14.3%
【表3】歴代モンゴル国会議員選挙の当選者数
第1回 (1992) 人民革命71、諸派4、無所属1
第2回 (1996) 民主連合50、人民革命25、諸派1
第3回 (2000) 人民革命72、諸派3、無所属1
第4回 (2004) 人民革命37、祖国民主35、共和1、無所属3
一部再選挙の結果与野党同数となり、2年政権交代で同意
第5回 (2008) 人民革命45、民主28、諸派2、無所属1
第6回 (2012) 民主34、人民革命26、正義連合11、諸派2、無所属3
民主中心の連立政権
第7回 (2016) 人民革命65、民主9、諸派1、無所属1
第8回 (2020) 人民62、民主11、諸派2、無所属1
第9回 (2024) 人民68、民主42、人間8、新国民4、市民緑4
定員126に増員、人民・民主・人間の3党連立政権

与党人民党は過半数を超える68議席(議席占有率54.5%)を獲得。民主党は42議席で3分の1の勢力を確保。人間党は8議席、新国民連合と市民の勇気・緑の党がそれぞれ4議席を得た。
与党人民党は単独で過半数を確保したものの、比例代表制導入を柱とした選挙制度改正の影響を受けて議席占有率を減らした。このため選挙終了直後から安定政権樹立をめざして野党と連立政権協議を開始、7月10日までに連立政権樹立の合意に至り、3党連立のオヨーンエルデネ新内閣が発足した。

この「大連立」成立を検証すると興味深い問題を内在している。本来、与党が単独で過半数議席を得た選挙結果からは国民は過去2期8年間の人民党政権を信任し、さらに今後4年間の政権継続を託したはずである。しかし、あえて首相は「大連立」模索の道を選んだ。
そもそも、今回の選挙制度改革では野党に有利(少数意見が反映しやすい)な中選挙区制と比例代表制の並立制を採用している。与党圧倒的多数による単独政権の弊害を嫌ったものであろうか。2008年の選挙直後に人民革命党本部(当時)が暴徒化した野党支持者らに放火略奪され非常事態宣言が発動された事件があり、モンゴルでは強権的政治手法が回避される傾向にある。
第2党の民主党は議席回復とともに久しぶりの政権復帰を果たした一方、健全野党として批判勢力に徹する政治路線を放棄した。第3極に政治勢力結集をめざした人間党も「大連立」に加わったため、野党不在のモンゴル国会が誕生した。
この「大連立の仕掛け人」がオヨーンエルデネ首相自身であることは間違いない。同氏は現在44歳。若くして人民革命党のエリート党官僚の道を進み31歳で人民党(党名変更を実施)書記長に就任。野党時代に海外留学を経験して帰国後の2016年に国会議員に初当選。この選挙で人民党は圧勝し単独政権奪還を果たす。同氏はフレルスフ政権の内閣官房長官となり2期務めた後、2021年にフレルスフ氏を大統領選挙で当選させる。フ前首相の大統領転出の後任としてオヨーンエルデネ氏が新首相に就任した。今回、首相としては初めての選挙で人民党を3回連続の勝利に導いた。
過去の例では、モンゴルの政局は次の選挙の1年前から一気に動き出す。連立の解消や党の分裂、新党結成、選挙に向かって「何でもあり」の政争が繰り返されてきた。
今後3年間にオヨーンエルデネ首相の狙いどおり強力な「挙国一致内閣」の成果を上げることができるのか、第2党、第3党の主張がどこまで実現するかがモンゴル政局の行方の注目点となるだろう。 4年後のモンゴル国民の審判がどのようなものになるのか、今から興味深い。

モンゴル社会の変化は著しい。一例を挙げれば、社会主義時代に首都の中心部に建設されたレーニン像は民主化後も暫くは静かに立ち続けていたが「いつの間にか」撤去され、現在はチンギスハーン像がその地位を引き継いでいる。モンゴル民族の英雄としての新らたな「チンギスハーン史観」が確立されつつあるようだ。1920年代のモンゴル革命の英雄スフバートルの名前を冠していた政府庁舎前広場は、最近「チンギスハーン広場」と改称された。
モンゴルでは過激な変化は敬遠されるようだ。レーニン像が引き倒される混乱も流血の事態もほとんどなかった。しかし、ソ連駐留軍の撤退と同時に70年ぶりの大変革が進められた。モンゴル国民は歴史的な絶好の機会を見逃すことなく、チンギスハーン時代以来数世紀ぶりに真の独立を回復させたといえよう。しかも「静かに」「いつの間にか」実行されたのだ。

モンゴル民族は現在のモンゴル国の版図のほか、地続きのロシアと中国・内モンゴル自治区にも居住し合計人口は1,000万人を超えるとされる。従来から「汎モンゴル構想」と呼ばれる全モンゴル民族の完全独立の夢が、数世紀後の未来に実現されることがあるのだろうか。この100年、数多くの中央アジアの少数民族の中で独立を守り切ったのはモンゴルだけであり、今後とも険しい試練の道が続くことになろう。
翻ってソ連崩壊の同時期を経験しながら北方領土問題で何らの進展を見なかった我が国との違いが奈辺にあったのだろうかと考えざるを得ない。

今回のインタビューの中で、ナランバヤル教育大臣は「日本との人的交流の強化、日本からの投資促進」に触れた。これは今回の3党連立政権政策合意の中に「海外からの投資促進」が人間党の主張で採用されていることを意識したものであろう。いかにもモンゴル人政治家らしい、静かな中にも粘り強い戦略性が感じられた。

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