労働遺産

労働遺産を後世に伝承

2022/06/06

 
2021年度第1回労働遺産認定(会報212号=2022年5月25日付から転載)

労ペン初の取り組みである「労働遺産」認定事業の第1回認定証が先の総会で2件、4団体に交付された。「川崎・三菱大争議など大正時代の関西労働運動の記録」では、①友愛会関西労働同盟会機関紙『労働者新聞』、②神戸川崎・三菱大争議の実写フィルム、③『死線を超えて』(草稿・賀川豊彦著)、④賀川豊彦生誕100年記念碑。「日本の近代的労働運動発祥の地に関する記念碑と遺構」では、①日本労働運動発祥の地「石碑」、②「惟一館」(初期労働会館)の煉瓦塀の一部と煉瓦が労働遺産に認定された。

今回、認定を受けた労働遺産を所有または所蔵・管理する4団体に、認定の喜びと労働遺産の意義についてご寄稿いただいた。特集の末尾では、労働遺産認定PTの座長で、労働遺産認定委員会の委員長でもある西澤昇治郎代表代理に、今後の取り組みの方向性について紹介してもらった。

労働遺産に選ばれて

賀川記念館 館長 馬場一郎

この度は「賀川豊彦生誕100年記念碑」を日本初の「労働遺産」として認定をいただき、感謝申し上げます。

働く現場の歴史を後世に伝えることを目的とした労働遺産認定事業として開始されたこの認定は大きな意味があると感じています。

認定された「賀川豊彦生誕100年記念碑」にはこのような文章が刻まれています。

~この生田川公園を中心にした賀川豊彦の文字通り体を張った活動は、自伝小説「死線を越えて」に著され、当時のベストセラーとなりました。

「死線を越えて我は行く」の死線は、病を克服するだけではなく、貧困、権力、社会悪、戦争、暴力と闘い、それを越えて進んでいく考えを表したものです。その後、彼は労働組合や農・漁民組合、生活協同組合など、社会のあらゆる分野に影響を与えました。また、国際的な平和運動への呼びかけは、今日の国連やECの思想・活動にも深く影響をしています。~

1909年12月、賀川豊彦は当時西日本最大と言われたスラムに単身で住込み、セツルメント運動を起こします。行き倒れの人を家で看病し、医者に診せ、薬を与え、元気になれば仕事を紹介し、亡くなればお葬式を行ったと記録にあります。また栄養のある食事をとってもらうために一膳めし屋を開店しました。また子どもたちには、クリスマス会を催したり、夏には明石まで海水浴に連れて行きました。法律も社会保障制度もない時代に目の前で苦しみ、悲しむ人々のためにやれることは何でも行いました。

賀川は社会的に弱くされた人々のために一生をかけて仕事をしたということです。この考え、精神は私たち法人の理念として継承され、法律や社会保障制度が整った現代にあってなおその考えは輝きをもって認識されています。いや、制度が整った今だからこそ必要な精神であると考えています。

この度の認定は、そのような意味でも賀川精神である弱くされた人々のための先駆的な運動を評価いただいた結果であると思います。今後もこの精神を引き継ぎ、地域社会の課題に向けて働きを強めていきいと願っています。

「初の労働遺産認定を受けて」

法政大学大原社会問題研究所 榎一江

日本労働遺産第一号に認定していただき、ありがとうございます。法政大学大原社会問題研究所の資料担当として、鈴木玲所長の代理で日本労働ペンクラブ総会にうかがい、認定証を受け取りましたので、ご挨拶させていただきます。
大原社会問題研究所は、倉敷紡績の大原孫三郎が1919年に大阪で設立した民間の研究所で、社会問題の解決を目的とする社会科学研究所としては日本で最も古い研究所です。1937年に東京に移転したのち、1949年に法政大学と合併し、2019年に創立100周年・法政大学との合併70周年を迎えました。

今回、日本労働遺産の認定を受けたのは、いずれも創立間もない大原社会問題研究所が収集した資料です。これらは、研究所が大阪から東京へ移転する際にも貴重資料として運ばれ、空襲で研究所が全焼した際にも唯一焼け残った土蔵に収められていました。防火性のある土蔵に貴重資料を収めたのは、1923年の関東大震災で東京在住者が被災し、多くの資料を焼失させた経験があったためと思われます。いずれにせよ、大原社会問題研究所は徹底的に資料を収集し、資料に基づく学術的な調査研究活動を推進することを使命としてきました。大阪を拠点とする研究所が関西労働運動の記録を収集し、現在まで保持できたのはこの精神が脈々と受け継がれているからと言えます。およそ100年前の研究所が収集し、保存してきた資料を「労働遺産」として認定していただいたことに改めて感謝申し上げます。
さて、今回の認定資料はいずれも賀川豊彦に由来するものですが、研究所との関係は『労働者新聞』や川崎・三菱大争議の記録映像のみにとどまりません。実は、賀川が『死線を越えて』の印税を投じて設立した大阪労働学校の経営を引き継いだのも、大原社会問題研究所の高野岩三郎らで、今回の認定が賀川豊彦と研究所とのつながりを想起する機会になれば幸いです。

法政大学大原社会問題研究所は、2022年4月から、布川日佐史所長、鈴木玲副所長の新体制となりました。調査研究活動として『日本労働年鑑』『大原社会問題研究所雑誌』の刊行を継続するとともに、貴重な資料の収集・整理・保存を通して学術資源の整備に努めてまいります。現在、平塚らいてう資料の寄贈を受け、新たにデジタルアーカイブの構築も予定しております。貴重な資料を後世に残す意義を再確認しつつ、邁進してまいります。

初の労働遺産認定を受けて

賀川豊彦記念松沢資料館館長 黒川知文

賀川豊彦(1888-1960年)は、戦前、海外で最も知られた日本人であり、海外では、現代の三大聖人の一人として「ガンジー、シュバイツァー、カガワ」と言われた。アメリカのワシントン国立大聖堂には賀川豊彦の等身像が安置されており、またロサンゼルスにはカガワ・ストリートがある。戦後には、ノーベル文学賞候補に2回、平和賞候補に3回なった。

賀川は、21歳の時から神戸の貧民街に身を投じてキリスト教の牧師として貧しい人々の魂の救済に専念し、その後、労働組合運動、農民運動、協同組合運動、無産政党樹立運動等の社会の救済に献身した。1923年に関東大震災が発生するや、東京に移住して、罹災者救済やセルツメント事業に力を尽くした。

戦後恐慌の1920年に出版された賀川豊彦の自伝的小説『死線を越えて』は、100万部を越えるベストセラーとなり、その後も『一粒の麦』、『空中征服』、『乳と蜜の流るゝ郷』など、労働者を主人公にした数々の社会的小説を賀川は発表して、多くの読者を得た。その莫大な印税は、賀川が関与した社会運動や、労働者の生活安定を目的とした生活協同組合運動の資金になった。

人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして「まさか」である。結核療養中の賀川が愛知県蒲郡の海辺において書いたのが「鳩の真似」(後の「死線を越えて」)である。この小説がベストセラーになることは「まさか」の出来事であった。牧師であった賀川は、「まさかの時は神の時」と信じて、神に感謝して、印税を労働者のために使用していった。

賀川の生涯を決定したのは、以下の3点である。第1は、死を予感し、「残る生涯を貧しい人の救いのために生きたい」という個人の決意、第2に戦後恐慌(1920年)による社会の矛盾、貧富の格差という状況を貧民街で生活して痛感したこと、第3に聖書の言葉に基づいて、個人の救いと社会の救いを求めることに導かれたことである。
私は、賀川豊彦が生涯を通して求めた聖書の言葉は以下であると思っている。

「あなた は 心 を 尽くし、いのち を 尽くし、 知性 を 尽くし て、 あなた の 神、 主 を 愛し なさい。」「あなた の 隣人 を 自分自身 の よう に 愛し なさい」(マタイ福音書22章36-40節)

神との間にしっかりとした関係を持ち、限界がある人間的な愛ではなく、神からの愛によって、隣人を愛し、社会の救済をめざした生涯を賀川は歩んだ。

小説『死線を越えて』は、日本の労働運動等において重要な役割を担った賀川の生涯を決定した小説であり、初の労働遺産としての認定をされた日本労働ペンクラブ様に、心から敬意を表し感謝いたします。

「初の労働遺産認定を受けて」

日本労働会館 理事
友愛労働歴史館 館長 徳田孝蔵

東京港区芝にある友愛会館の敷地東北の一角に高さ約3mの「労働運動発祥之地」記念碑と煉瓦7段を積み重ねた約10mの長さのユニテリアン教会・惟一館煉瓦塀跡を見ることができる。

この二つを日本労働ペンクラブは本年1月初めての「日本労働遺産」に認定した。この認定は日本労働会館の活動に携わる者にとって、きわめて意義深く、感慨深いことであった。

米国ユニテリアン教会は1894年三田四国町にユニテリアン教会・惟一館を建設した。1898年にはユニテリアンの安倍磯雄らにより社会主義研究会(のちの社会民主党)が結成された。さらに1912年この教会職員の鈴木文治が15名で社会的弱者である労働者の生活を向上させたいと考え、日本の労働運動の源流といわれる友愛会(のちの総同盟・同盟・現在の連合)を創立した。これらのことから、この地は日本社会主義運動、日本労働運動の発祥の地とされた。

1928年、総同盟はすでにユニテリアンが撤退していたため、活動の拠点としていた惟一館を買い取ることを決議し、1930年に会員の募金と安倍磯雄らが発起人となって集めた寄付金で惟一館を買収し、1931年には改装後、日本労働会館とした。当時労働運動団体は不動産の所有ができなかったため、財団法人日本労働会館とした。

1945年5月24日未明の東京山の手大空襲により日本労働会館本館は消失した。その時の名残が煉瓦塀跡である。

戦後、1949年には日本労働会館跡地に総同盟会館・全繊同盟会館が建設され、労働運動の拠点となった。

1977年にはホテル三田会館を開業、1982年には「民主的な労使関係の確立を通じて、産業・企業の発展をはかる」ことを目的として、労使関係研究協会を設立、2006年には友愛労働歴史館を開館した。

今後、日本労働会館は労働運動、社会運動に携わる活動家に友愛労働歴史館の活動や目に見える労働遺産を活用して、自由にして民主的な労働運動の精神を継承する活動を推進する。

友愛労働歴史館は社会運動の歴史資料館と位置づけ、社会運動に関する資料の収集・保存、調査・研究、展示・情報発信に取り組んでいく。
その対象は①友愛会から連合までの労働運動、②戦前の社会民主党・社会大衆党から戦後の日本社会党・民社党までの政党活動、③ユニテリアンゆかりの社会運動の3つの分野である。

労働ペンクラブの諸先輩には今後も私どもの活動にご理解、ご協力をお願いする次第である。

認定証をお披露目する馬場館長認定証をお披露目する馬場館長

山田代表から認定証を受け取る法政大学大原社会問題研究所の榎先生(左)山田代表から認定証を受け取る法政大学大原社会問題研究所の榎先生

山田代表から認定証を受け取る黒川館長山田代表から認定証を受け取る黒川館長

山田代表から認定証を受け取る徳田理事(左)山田代表から認定証を受け取る徳田理事

理解と共感、そして参加と組織的活動展開を

労働遺産PT座長兼労働遺産認定委員会委員長・西澤昇治郎代表代理

労ペンの労働遺産認定事業は名実相伴うための重要な2年目を迎えた。その礎である認定要綱のお浚いと活動経過を振り返る。 要綱の目的は「会員各位が労働遺産を発掘し、その意義と価値を認識し継承、保全することの重要性を広く社会に発信し、働く現場の歴史を後世に伝えること」。

主な対象は「労働基本権の確立過程や雇用の改善、生産性向上など労働に関する労使等の取り組み成果・課題解明に積極的に寄与していると認められる諸分野で、今後に継承できる組織・活動、遺構、記念碑、歴史的文書類等」である。

この基準に沿って初年度は、2件・6点の遺産認定を行ったが、審査段階では、委員の認識度合いや申請水準の違い等から、議論が入口論に終始し、先行きに赤信号が灯った。しかし、関係各位が原点に立ち返り「誰もが納得し得る労働遺産の認定」の思いを共有した結果、前記の実現に結びついた。

一方、課題も浮き彫りになった。これらは「活動の評価・検証と今後の対応」として、論点・課題と対応方針を取り纏めている。
その骨子は、1.対象範囲については、当面(3~4年)は現行の認定要綱に基づき活動を継続し、その上で更なる充実に向け、対象要件や範囲について検討する。
2.会員が申請活動し易い環境づくり(①会員への周知徹底②活動推進の体制と機能③認定労働遺産のフォロー)を進める、として具体的対応策を提起している。

それは、活動の定着・発展は、会員の理解と共感による参加と点から線・面へと裾野を拡げる組織的活動展開が不可欠との認識による。この二面を有機的に繋げることが、実効性や労ペンの存在意義を高めることでもある。

活動2年目、会員皆さんの理解と積極的な参加を願う次第です。

  
 

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