総会

3つの理念と3つの課題

2019/07/16

 
第3代代表 飯田 康夫

理念=人間の尊厳こそ労働の原点・労働は商品ではない・ディーセントワーク 課題=雇用の安定・労災事故ゼロの安全第一・組織の拡大

労働ペン創設時、存在感を鼓舞してきた労働界トップリーダーを招き、東京・芝パークホテルでの発足総会の姿が、いま鮮明に蘇る。
小生の記者生活は、労働記者一筋、60有余年にわたり刻み続けることができたのも「労働ペン」の存在なくしてはあり得ない。  
労働ペンでの取材で気付かされたのは、経済・経営環境に振り回される労働者の姿だった。  
なべ底景気(昭和32年)や就職氷河期、止む無く不本意な選択をせざるを得なかった世代。非正規という不安定な雇用では勤労者生活の安定は実現不可能だ。これでは再生産に結びつかない。

今日、職場に嫌がらせの風土が蔓延っていないか。"人間の尊厳"が蔑ろにされる企業社会は、健全な姿ではない。
ILOのフイラデルフイア宣言には"労働は商品ではない"という崇高な理念がある。人間を商品以下のような扱いをしていないか。  
"ディーセントワーク"(働き甲斐のある、人間らしい仕事)の理念を職場に浸透させたいものだ。  
労働記者1年生の頃、労災事故で亡くなる労働者が年に6千人を超えていた。人命軽視の企業活動の結果では余りにも痛ましい。  
労働記者の後半、労働保険審査会委員を任命され、過労死や過労自殺、嫌がらせ、セクハラ・パワハラなどの事案に関わってきた。労災事故に遭遇した労働者家族からの悲痛な声を聞き、過労死ゼロ、パワハラ撲滅に向けた職場づくりの大事さを学んだものだ。

労組組織化の課題も重要だ。数は力である。連合結成から30年。常に1000万連合を掲げながら、数は減る一方だ。が、非正規労働者の組織化が伸び、正社員労組員より非正規労組員が多数派を占めるという不甲斐なさが出現することもあり得る。労組リーダーに組織化の大事さを改めて訴えたい。

【会報ばんざい】労ペンの旅

鎌田  慧

労働ペンが創立されたころ、もう「四十年近く前」になるとのことだが、毎年のように、「視察旅行」に出かけていた。  
最初が「労働ペンクラブ東南アジア視察団」のご一行で、タイ、マレーシア、シンガポール。労使代表に会って、インタビューができる、なかなか便利で楽しい旅行だった。  
そのあと、自分でフイリピンやインドネシアの工場を見学して、ちゃっかり『アジア絶望工場』というタイトルの単行本にさせていただいた。それで労働ペンクラブ賞を頂いている。

労ペン視察団は、東南アジアばかりか、中国にもなんどか行ったので、それに加えて頂いて全国総工会と交流した。北京ばかりか、昆明、桂林、深の工場も見学できた。「世界の工場」になる前。いまの大国中国を準備していたころだった。それから中国の「現代化」が、急速に進んだ。  
これまで、労ペン視察団はどれほどの距離を視察旅行したのだろうか。会報を整理すると全容が判明するのであろう。  
敦煌までいったとき、わたしはある雑誌に「敦煌の彼方へ」と書いて、同行したひとたちから、不思議がられた。タイトルが意味不明だったからだ。  
敦煌は静かな町で、思い出深いのだが、そこから、さらにシルクロードをはるか西へ行ってみたい、との夢想を書いたのだ。  
後年、西安からバスでウズベキスタンまでいくツアーにはいることができた。それも敦煌までいった「視察団」の影響だった。

最近、また、ミヤンマーとラオスに連れて行って頂いた。と書くと、まるで旅行に行くために入会したように聞こえるが、この会の魅力は、ほかのかたが十分に書かれることでしょう。  
とても勉強になる会なのだ。

「あの日あの時」②お引っ越しは計6回!!

結成時の事務所は、銀座6丁目ウエストビル6階の銀座出版社内だった。同社代表で設立時メンバーの内海一栄氏の好意により、家賃は無償。しかし、結成5周年を迎えたばかりの、86年3月、同氏が死去、銀座出版も解散。新事務所が必要に。第19号(86年6月1日)のトップは、「新事務所決まる」。港区芝2丁目の芝園ビル8階に入った。5周年を伝えた18号は、同年1月の発行だから、およそ半年も会報は発行されず、混乱ぶりが伝わる。さらに、その2年後の第27号(88年11月1日)では、同じ芝2丁目の阿部ビルに転居。ここもすぐに引っ越し、第29号(89年5月25日)から、丸の内の東商ビル内の日本労働研究所に間借り。以降、東商時代が続く(途中1回ビル内転室)。家賃は年間60万円。年間総予算の3分の1。さらに、ILO協会の好意で、現在の宗保ビル2階に間借り。同協会の解散で、2011年4月から5階に独立事務所を持った。

  
 

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