総会

路頭に迷いかけた労ペン

2019/07/22

 
第4代代表 久谷與四郎

「労働ペン」200号おめでとうございます。事務所にある綴じ込みは、労働ペンクラブの長い歩みの証言そのものです。  
さて、「労働ペン」について、代表に在任中の思い出を書けという注文ですが、正直なところ、これという思い出が浮かびません。機関誌担当の幹事にお任せしていたからです。その理由は、私が在任中、労ペン自体がある意味、路頭に迷いかねない危機に立たされる事態が起きたからです。

労働ペンクラブは創立以来、独自に事務所を持たずに、長い間丸の内の東商ビル内にあった日本労働研究所に、その後は日本ILO協会にヤドカリしていました。ILO協会の一角に備品を置かしてもらい、その会議室で幹事会開催という具合です。その協会が政府方針で解散することになったのです。世話になれる中立的団体は他になく、あわや路頭に迷う運命に直面しました。  
そこで、私と会計の坂田さんと二人で、上野、渋谷などの不動産屋巡りを繰り返しました。適切な物件はなく、結局は現事務所の宗保ビルが大手町、神田駅から近く、会員が集まりやすいことから、そこに決めました。ILO協会の調度品をもらえる利点もありました。  
その結果もちろん、財政を大きく圧迫することになりますが、会員との連絡を往復郵便から現在のようなメール方式への切り替え、労働ペンへの広告掲載、会員相互の集まりや研究会への事務所貸し出し、会費のほかに会員からの寄付(維持会費)募集などの方針を決めました。その後、会員連絡のメール化以外にはあまり実現されていないのは残念に思います。

会の健全運営の基本は、やはり会員数の増加が第一。労働問題の多様化に対応して、会員の活動分野の拡大も必要と思います。もちろん、"ムダの排除"の努力は永遠の課題であり続けるでしょう。

【会報ばんざい】会員の息遣いがわかる紙面を

松田 宣子

200号、おめでとうございます。それだけ月日がたったのですね。  
私の会員番号は131。クラブの末席を汚すようになってから三十年あまり経つ計算になる。

今だからいうが、当時のクラブの中は男社会。先輩に推薦されて入会したものの、若輩(まだ私も四十代だった)の身は殆ど無視される状態に近く、借りてきた猫同然にしていた。阪神・淡路大震災直後の視察旅行に参加した時も、はぐれないように、参加者の後を追って行くので必死だった。  
ようやく、労働ペンクラブの一員だと、自覚できるようになったのは、幹事に選ばれ、広報担当になってからだった。それとて、はじめは、すでに退会しておられる先輩の付き人みたいな役割で、会報の発送が専らだった。やがて、他の男性会員二人と、編集を担当するようになり、同時に印刷所への提稿や校正の大変さも味わった。  
年配の先輩の中には、FAXも利用していない方もいて、ゲラ校正も郵送になる。その都度、電話の確認も必要なのだが、怖い大御所だと、おっかなびっくり。また、締め切りを守らないご仁もおられ、新聞社のデスクの苦労もかくやと思われた。パソコン・メール時代の今では昔話や笑い話になってしまうが。  
現在、自分はそういった現場から遠い立場になってしまったし、労働ペンクラブの男社会的な雰囲気もだいぶ変わったように見える。が、その反面、会報にも無難な安定感が感じられるのが少々気にかかる。

機関誌はまずは会員の情報を共有する大事な場だが、ときには、思い切った企画も欲しい。編集担当には負担かもしれないが、テーマを掲げた意見交換の場も望みたい。会員層も世代交代を迎え、この喜寿のババは大勢の息遣いが紙面で分かるといいな、と思う。昨今はやりの言葉を使えば、サステナブル会報を心から祈念します。

「あの日あの時」③ロマンのキャンドル、メリケン波止場

「ロマンのキャンドル、愛のエレクトーン」。今から見ると、かなり黄ばんだ言葉ではあるが、これは、早くも、第2号(81年7月10日号)に掲載された広告だ。出稿元は、全逓会館結婚式場。81年1月に産声をあげた労ペンだが、母乳にも等しい資金は会員から納入してもらう年1万円(当時)の会費だけ。先輩たちの脳裏に、収入増対策が浮かんだのは極めて当然の成り行きだろう。さらに、第3号でも、「メリケン波止場の見える」横浜逓信会館の広告も見える。第10号では、全逓会館結婚式場が2回目の登場。その後、広告掲載は絶えて、第164号(2012年10月10日号)(明石書店「アメリカの労働社会を読む事典」)あたりから散見され始める。

  
 

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