総会

若者よ、困難を乗り越え、労ペンを引き継いで

2019/07/29

 
第5代代表 稲葉 康生

労働ペンクラブはスルメのような組織だ。噛めば噛むほど味が出る。行事に参加すれば刺激を受けるし、得るものが多い。会員の層は幅広い。メディア、労働界、経済界、官界、研究者など多様な経験と知識をもつ人たちが集まっている。  
労使関係や雇用・労働問題をフォローする団体は労ペンだけだろう。多様な経験や考え方を持った人たちの集まりであり、それが面白い。こういう文字通りユニークな集まりだから、長い間、続いてきたのだろう。労ペンをつくった先輩方に感謝をしたい。

会員になったのは、40代のはじめだった。国鉄の分割民営化、総評の解体、労働四団体の労戦統一と連合の発足、雇用の規制緩和、正規社員の減少と非正規雇用の急増、外国人労働者など、いろんな課題が次から次へと現れ、取材に追われてきた。  
振り返れば、労働問題の状況は好転どころか、厳しさを増している。働き方の見直しや「AI(人工知能)と雇用」の問題など新しいテーマは事欠かない。だから、労ペンの存在理由は失われないどころか、ますます大きくなっている。

労ペン会報が創刊以来200号になった。継続は力なり、という言葉を改めてかみしめている。新聞記者は飽きやすく、冷めやすいと言われてきたが、そうでもない、と言いたい。  
旧労働省と厚生労働省の合併で労働記者が減少しているのが気がかりだ。そもそも厚生と労働行政を政治の都合で無理矢理一つにしてしまった行政改革は失敗だったと思う。  
とはいえ、いつの時代も困難はある。労働関係に関心のある若い人たちには、そうした壁を乗り越えて、労ペンクラブを引き継いでいってもらいたい。

【会報ばんざい】会報は労ペン会員の絆 生の意見の交流を願う

板東  慧

1970年代のある日、評論家の矢加部勝美さんから声をかけられて、「何かクラブ的な組織をつくらないか」と誘われた。その頃、関西と東京と離れてはいたけれど、総評や産別組合などの討諭集会や単組の講演会などにお互いに招かれてお会いすることが多かったし、気ごころも通じていたので、二つ返事で応じて私が関西の仲間に呼びかけ、矢加部さんが東京中心に呼びかけてできあがったのがわが「日本労働ペンクラブ」でありました。  
その頃はもとより、労働組合のさまざまな課題はあったが、何といっても「労働戦線統一」が最も中心的なテーマであり、そのアプローチを巡ってはそれぞれの意見も立場もあったが、その必要性については誰も異論のないところであったし、論者にとって情報交流や意見を述べあう場が必要であり、「労ペン」はまたその役割を果たしてきたと思います。

労ペンは、評論家・研究者・運動家が自由に議論し問題提起する場として、その後拡大発展し、「労ペン」の名の下で親しまれ、機関誌はもとよりこのクラブの絆として役割を果たしてきました。  
今回は、その労ペン会報の「200号記念特集」で、まことに喜ぶべき日を迎えました。  
これからも、会員の拡大とともに、会員の「生の意見の交流の場」として様々な会議と機関誌が役割を担っていけるように願っております。

関西豆知識

関西支部は、91年10月20日に神戸で結成総会を開いた。板東会員が初代代表で、7人でスタート。現森田代表は五代目。結成総会に合わせて、初の神戸見学会を行い、東阪連携はこの時に始まった。人事労務の専門家が多く、記者出身をどう増やしていくかも課題。

「あの日あの時」④繰り返されるオフレコ破り

労ペンへの信頼を揺らがすような「事件」が発生したのは、発足2年後の83年6月22日の「公労委を考える会」がきっかけだった。第9号(83年9月10日号)によると、公労委のメンバー(労ペン会員)からの話を聞く会だったが、これを7月28日付の全国紙のコラムでとりあげた。講師からはオフレコが前提で話したこと、趣旨も違っている―などのクレームがついた。当該新聞社と講師間で解決策がまとまったが、労ペンとしても、①スピーカーの意思を最優先、②(記事化する場合は)事前にスピーカーの了解を求める―ことを呼びかけた。しかし、この後も、86年10月、鉄労組合長のヒアリング発言が文書化され、第三者に配布される騒ぎが起きたり(第22号)、93年5月、春闘ヒアリングをめぐって、「オフレコ原則を逸脱したかに見える報道、部外者へのリーク等があり、関係者に迷惑をかけた」と注意喚起する記事(第50号)が見える。

  
 

過去記事一覧

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